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第1章 チッタについての概要

2023年1月20日

第1章 チッタについての概要

訳者からのメッセージ

ブッダが発見され後世に残された真理と真理を見極める方法はまさに人類の宝といって良いと思います。

ブッダの教えの通りに正しい道を歩めば、やがて存在の本質を見抜く力が備わり、真理を体得して、苦しみの世界から抜け出すことが出来ます。

アビダンマッタサンガハは概念の世界を超越した清らかな目で見た時の生命存在の本質を説き明かし分かりやすく解説しています。真摯な気持ちでブッダの道を歩むものにとっては有益な道しるべとなります。

一方で、概念の世界に浸りきった普通の人々にとってその内容を理解するのは容易ではありません。言葉自体が大なり小なり概念を引きずっているので誤ったメッセージを伝えてしまうことにもなりかねません。

ブッダは最勝の智慧を駆使してパーリという仏教聖典にふさわしい用語を用い、真理の概要を弟子たちに伝えられました。その言葉一つ一つが完璧なメッセージを持っており、それを私たちが普通に使っている言葉で置き換えるのはほとんど不可能といって良いかもしれません。

例えばヴィンニャーナという言葉は日本語では「識」、英語では「consciousness」と訳されていますが、日本語にせよ英語にせよそれを見た人がヴィンニャーナの持つ意味が正確に理解するのは簡単ではありません。なぜなら「識」も「consciousness」もブッダの教えを伝えるため作られた言葉ではないからです。逆にヴィンニャーナを「識」と置き換えることで「識」という文字にしみついている一般的なイメージが混入し、読者に誤った知識を植え付けてしまう可能性もあるかと思います。

このような背景からここでは大切な用語については極力訳語を当てずにパーリの表現のままにしています。それぞれの用語は本の中で明確に定義されていますのでそれをしっかりと確認し身に着けることが大切です。なおそれぞれのパーリは聖なる八正道を実践する過程で自ら体験する真理の一つ一つに対照しています。ですから八正道の実践抜きでは正しく把握することは出来ません。

仏教の経典全てに共通することですが、実践と学習は常に表裏一体です。あたかも学生が教室で習った知識を、実験ないし観察を通して自らの経験に照らし合わせて理解するように、ブッダの道を歩む私たちも修行の中で自ら確認し、「ブッダの説かれたことは真実だ、間違いない」と一つ一つ検証することが大切です。それにより少しずつ洞察の目が養われ、ブッダの教えに対するゆるぎない信頼が培われ、究極の真理へと近づくことが出来るのです。

また実践にあたっては優れた指導者の存在が不可欠です。リンゴに例えるならば、経典はリンゴの種がどのようなものか、どこに行けばリンゴの種を見つけることが出来るのか、リンゴの種を撒いた後にどのように世話をしたらよいのかなど、栽培の手順を教えているとも言えます。

しかしリンゴの木を栽培したことが無い人が本だけを頼りにして栽培しても多くの場合うまくいきません。リンゴの木を栽培したことがあり、リンゴの木の状態を正確に判断し、適切な対応が出来る経験豊富な指導者がどうしても必要となります。

さらに言えばリンゴの味を知らない人が本を読んだだけでリンゴの味を理解することは出来ません。出来たリンゴの実がほんとうにリンゴなのかどうかはそれを味わったことがなければ分かりません。ですからリンゴの栽培方法を知り、リンゴの味を知っている人に教えを請わなければ先へ進むことができません。仏教ではサンガがその大切な役目を担っています。

サンガはブッダの入滅後2500年以上にわたって、正しい教え、正しく指導できる人、正しく修行実践できる環境が絶えないように守り続けてくれています。仏教の置かれた困難な状況を考えるとまさに奇跡としか言いようがありません。私たちもまたこの真理を見抜く智慧の光を絶やさないように努力しなければなりません。

そのためには私たち自身が正しい道を歩み、真理をこの目で確かめ、後世に伝えていく必要があります。一人でも多くの方がアビダンマッタサンガハに書かれた説明を頼りに八正道を正しく実践し、究極の安らぎである涅槃を悟り、人間として最高の仕事を成し遂げてほしいと願っています。

ナモー タッサ バガワトー アラハトー サンマーサンブッダッサ

第1章 チッタについての概要

第1節 トゥティヴァチャナ(称賛の言葉)

サンマーサンブッダン アトゥラン
ササッダンマガヌッタマン
アヴィワーディヤ バースィッサン
アビダンマタサンガッハン

完全なる覚りを開かれた方、比類なき方、そして崇高なるその教えと聖者の集いを尊敬合掌して礼拝し、アビダンマッタサンガハ(アビダンマに記された教えの概要)についてこれから語ります。

第1節へのガイド

尊敬合掌して礼拝し(アヴィワーディヤ):パーリ仏教の伝統ではダンマについて語り伝える前にブッダ、ダンマ(ブッダの教え)、サンガ(ブッダの教えに従う者たちの集い)の三つの宝に帰依する言葉を述べるのが習慣となっています。真実を誤りなく理解しようと努力する全ての人にとって三つの宝は究極の拠り所となっています。ですから、この本の著者であるアーチャリヤ・アヌルッダ尊者もこの伝統に従い、深い献身を込めて、三つの宝を敬う称賛の言葉を述べた後に論述を初めておられます。ふさわしい対象を敬うことは善業となり、その人の心に功徳(利益)をもたらします。帰依の対象として最もふさわしい三つの宝を敬えば、功徳(利益)はとてつもなく大きく、力強いものとなります。心に蓄えられたそうした功徳は心を清らかにする取り組みを成し遂げる際の障害を取り除き、それを完遂させ成功に導く力があります。そればかりでなく、ブッダの教えに従う者にとって、ダンマ(ブッダの教え)についての本を書くことはパンニャーパーラミー(解脱へと導く智慧の力)を育てる貴重な機会となります。そのため著者は本の最初に至福に満ちた称賛の言葉とともに、このような素晴らしい機会を得ることができたことへの喜びを表現しています。

サンマーサンブッダ(完全なる覚りを開かれた方):ブッダは全ての現象の究極の本質を細かい点から普遍的な性質まで独力で完璧に理解されました。完全なる覚りを開かれた方と呼ばれるのはそのためです。サンマーサンブッダには「誰に頼ることも無く独力で獲得した、全ての真理についての直接の理解」という意味が込められています。ブッダはまたアトゥラ(比類なき方)とも呼ばれます。その能力、偉業に匹敵するものは他に誰もいないからです。アラハント聖者(完全なる覚りを得て解脱を果たした聖者)は全て解脱するのに必要な道徳(戒律)、集中(禅定)、智慧(慧)を持ち合わせています。しかし最勝のブッダに備わった計り知れない徳(タターガタ[如来]が持つ十の智慧の力[中部経典12]、四つの自信の土台[中部経典12]、偉大なる慈しみの成就[パティサンビダーマッガ,i,126]、遮るもののない全能の智慧[パティサンビダーマッガ,i,131])を持ち合わせた者は他に誰もいません。このようにブッダに匹敵する生命はどこにもいません。経典の中には「比丘たちよ、稀有で、匹敵する者無く、等しい者もおらず、比べようのない、比類なき、適う者無き、唯一の、人類最高の人であるタターガタ(如来)、アラハント(阿羅漢)、サンマーサンブツダ(完全なる覚りを開かれた方)がおられます」というブッダを称えた言葉が見られます(増支部経典.1:13/i.22)。

サッダンマ(崇高なるその教え):ブッダの教え、言い換えればダンマには三つの側面、パリヤッティ(学習)、パティパッティ(実践)、パティヴェーダ(悟り)が示されています。「学習」とはティピタカ(三蔵)、すなわちブッダの教えを記録した聖典の学習です。ティピタカ(三蔵)はヴィナヤ(律蔵)、スッタ(経蔵)、アビダンマ(論蔵)の三つを合わせたものです。「実践」は道徳(戒律)、集中(禅定)、智慧(慧)からなる三段階の訓練のことです。そして「悟り」は、輪廻からの解脱に至る道(マッガ)を洞察し、涅槃を悟ってその結果(パラ)を体験することです。それぞれの段階が次の段階の礎となっています。なぜなら学習が実践の道しるべとなり、実践することで進歩を遂げて悟りに達することが出来るからです。ブッダの教えは真実であり、善である点で「崇高」と呼ぶれます。なぜならブッダの示した通りにその教えを実践すれば確実に涅槃を悟り、至高の真理、最勝の善に達することが出来るからです。

ガヌッタマ(聖者の集い):ガナという言葉は仲間ないしグループを意味します。そしてここではサンガ、すなわち共同体ないし集いという意味で使われています。ブッダのサンガには二つの種類があります。一つはサッムテイサンガ(伝統的に使われている意味でのサンガ)で比丘、比丘尼(完璧に受戒した男性修行僧と女性修行僧)の集いです。そしてもう一つはアリヤサンガ(聖者のサンガ)で、帰依の偈文の中では「聖者の集い」と表現されています。「聖者の集い」とはブッダの教えに従い、涅槃を悟った者たちの聖なる、あるいは神聖な共同体です。ソーターパッティ(預流)、サカダーガーミ(一来)、アナーガーミ(不還)、アラハント(阿羅漢)という聖者の四つの段階に達した人々で、それぞれの段階において道、果のどちらを得たかにより二種類あります。

アビダンマに記された教えの概要についてこれから説明します:この本のタイトルであるアビダンマッタサンガハの文字通りの意味は「アビダンマに記された内容の概要」、すなわち、アビダンマピタカ(論蔵)により伝えられたブッダの「特別な」ないし「卓越した」(アビ)教え(ダンマ)となります。「これから語ります」(バースィサン)という言葉により、この教本が暗誦し、暗記するために、そして真理を分析する道具としていつでも使えるようにという意図で書かれたことを思わせます。

第2節 チャトゥダー パラマッタ(四つの究極の真理)

タッタ ヴッタービダンマッター 
チャトゥダー パラマットー
チッタン チェータスィカン ルーパン
ニッバーナン イティ サッバター

アビダンマの内容、そこに書かれていることは究極の真理の観点からまとめると四つになります:チッタとチェータスィカとルーパとニッバーナです。

第2節へのガイド

究極の真理の観点から(パラマットー):アビダンマの論理に従えば真理には二種類あります。一般的(サッムティ)な真理と、究極の(パラマットー)の真理です。一般的な真理は普通の概念的思考(パンニャティ)と一般的な表現様式(ヴォーハーラ)を差します。生命、人、男、女、動物、などこの世界の表面的な姿を形作る一見安定して存在するかのように見える対象が含まれます。アビダンマ哲学ではこうした名称は究極的には妥当ではないととらえています。なぜならそうした名称で呼ばれている対象は、これ以上細かくすることが出来ない要素として独自に存在しているわけではないからです。その存在は概念的な物であり現実ではありません。精神的活動(パリカッパナー)の産物であり、自らの性質を拠り所として他に依存せずに存在する真理とは異なります。
 
一方で究極の真理はそれ自身に内在する性質(サバーヴァ)により存在する物事を差します。究極の真理はダンマです:これ以上分けることができない、存在の究極の要素です。存在を正しく観察した結果としての究極の実態です。これ以上細かく分けることは出来ず、それ自身が分析の最終限界となっています。複雑多岐にわたる経験の本当の構成要素です。パラマッタという用語が当てられているのはこのためです。パラマッタはパラマ(究極の、最高の、最終の)とアッタ(真実、事物)から派生した言葉です。

究極の真理は存在論的な角度から見た究極の存在としてだけでなく、認識論的な角度から見た正しい知識の究極の対象として特徴づけられます。ゴマから油を抽出するように、一般的な真理から究極の真理を抽出することが出来ます。例えば「生命」、「男」、「女」といったものは概念ですが、不可分の究極の実態であるかのような印象を与えます。しかしながら、アビダンマの道具を用い、智慧を使って分析すれば、そこには概念が示すような究極性はないことが分かります。一般的な真理は永続することのない精神的・物質的な現象の流れを組み合わせものに過ぎないということが分かります。このように一般的な真理を、智慧を使って検証することで、ついには概念で作り上げた物事の背後にある客観的な真実を理解するようになります。心の形成機能に依存せず本来備わっている性質を維持するこうした客観的な真実、言い換えればダンマこそが、アビダンマで語っている究極の真理です。

究極の真理が物事の根本的な要素であることは明らかですが、あまりにもとらえどころが無く、理解するのが難しいため、訓練を受けたことがない一般の人たちはそれを知覚することが出来ません。そうした人たちは概念で心が曇っているため究極の真理を見ることが出来ません。概念のために真理を一般的に定義された形に作り替えてしまいます。智慧を使い、正しい対象に徹底して注意を向ける(ヨニソマナシカーラ)ことによってのみ、概念を超えて究極の真理を観察し、それを知識として取り込むことが出来るのです。このようにパラマッタは究極のあるいは至高の知識の領域に属するものとして表現されます。

まとめると四つになります:通常、経典の中でブッダは生命や人間を分析し、五種類の究極の真理にまとめておられます。生命を構成する五つの部分(パンチャッカンダ)、すなわちルーパ(物質)、ヴェーダナー(感受)、サンニャー(認知)、サンカーラ(意思形成)、ヴィンニャーナ(感覚を感じたという意識)です。一方、アビダンマの教えでは究極の真理を四つの範疇に分け、テキストに列記しています。最初の三つ、すなわちチッタ、チェータスィカ、ルーパには条件に左右される全ての真理が含まれます。経典の中にみられる生命を構成する五つの部分(パンチャッカンダ)はこの三つの範疇に収まります。ヴィンニャーナカンダはここではチッタの中に含まれます。一般に、チッタという言葉は様々な認識作用を指し示すために使用され、何が付随するかによって区分けされています。ヴェーダナー(感受)、サンニャー(認知)、サンカーラ(意思形成)の三つのカンダ(部分)はアビダンマではチェータスィカの範疇に含まれます。チッタが働く際に一緒に生じて様々な機能を担います。アビダンマ哲学では52のチェータスィカが列記されています。ヴェーダナー(感受)とサンニャー(認知)はそのうちの二つです。経典で述べられているサンカーラ(意思形成)は50に細分類されています。経典のルーパ(物質)はもちろんアビダンマのルーパ(物質)と同じ範疇に入りますが、アビダンマではその後半で物質的現象を24種類に分類して説明しています。

チッタ、チェータスィカ、ルーパという条件に左右される三つに加えて究極の真理がもう一つあります。この四番目の真理はどのような条件にも左右されません。パンチャッカンダ(生命を構成する五つの部分)にも含まれておらず、ニッバーナ(涅槃)と呼ばれています。条件に左右される生命存在について回る苦しみから最終的に解放された状態です。このようにアビダンマには全部で四つの究極の真理があります。それはチッタ、チェータスィカ、ルーパ、ニッバーナの四つです。

第3節 チャトゥッビダ チッタ(チッタの四つの区分)

タッタ チッタン ターヴァ チャトゥービッダン ホーティ:
(1)カーマーヴァチャラン;(2)ルーパーヴァチャラン;
(3)アルーパーヴァチャラン;(4)ロークッタラン チャ ティ

チッタはまず四つに分類されます。(1)カーマーヴァチャラチッタ;
(2)ルーパーヴァチャラチッタ;(3)アルーパーヴァチャラチッタ;
(4)ロークッタラチッタの四つです。

第3節へのガイド

チッタ:アビダンマッタサンガハの第一章は究極の真理の一番目であるチッタがどのようなものかについての説明に捧げられています。チッタが学習の対象として最初に取り上げられているのは、仏教徒が真理を分析する際には経験に焦点を当てるからです。そしてチッタは対象を知りそれに気づくという作業の構成要素であるという点で、経験の根本的な要素となっているからです。

チッタというパーリの用語はチティ、認識する、あるいは知るという意味の語幹から派生しています。注釈ではチッタは三つの方法で定義されています。(1)行為の主体として、(2)道具として、(3)活動として、の三つです。(1)行為の主体としてチッタは対象を認識します(アーランマナン チンテーンティー ティ チッタン)。(2)道具としてみた場合、随伴するチェータスィカはチッタを用いて対象を認識します(エーテーナ 
チンテーンティー ティ チッタン)。(3)活動としてみれば、チッタそれ自身は対象を認識する過程に過ぎません(チンタナマッタン チッタン)。

単なる活動という観点から見れば、三番目の定義が最も適切とみなされています。つまりチッタは根本的に対象を認識する、ないし知るという活動ないし過程だからです。認識という活動を離れてそれ自体で存在する主体や道具ではありません。チッタを行為の主体ないし道具とみなす定義が提唱されたのは、永続する自己ないし自我が認識の主体ないし道具であるという考えを捨てない人たちの誤った見解を正すためです。仏教徒はこの三つの定義を用いることで認識という行為を行うのは自己ではなくチッタであることを指摘しています。チッタは認識という行為に過ぎず、その行為は当然ながら永続せず、現れては消えるという特徴を持っています。

どのようなものであれ究極の真理の性質を明らかにするために、パーリ注釈では四つの方法を定め、それによりその真理の範囲を定めることができるようになっています。その四つの方法とは(1)その特徴(ラッカナ)、すなわちその現象の際立った特質、(2)その機能(ラサ)、それが行う具体的な作業(キッチャ)、ないし目標の完遂(サンパッティ)、(3)その顕現(パッチュパッターナ)、つまりそれが経験の中でどのように現れるか、(4)その直近の原因(パダッターナ)、すなわちそれが生じる根本的な条件、です。

チッタの場合その特徴は対象を知ること(ヴィジャーナナ)です。その機能はチェータスィカの「先導者」(プッバンガマ)になること、チェータスィカを統括し、常にチェータスィカを伴うことです。その顕現については、連続する過程(サンダーナ)として瞑想者の経験に中に現れます。その直近の原因はナーマ(生命を構成する精神的な要素)とルーパ(生命を構成する物質的要素)です。なぜならチッタは精神的な要素と物質的な現象なしに単独で生じることは出来ないからです。

チッタは対象を認識するというただ一つの特徴を持っており、様々な形で表れてもその全てにおいてこの特徴が維持されています。一方でアビダンマはチッタをたくさんの種類に区分しています。こうした種類もやはりチッタと呼ばれ、数えると89、詳細に分類すれば121になるとされています。(表1.1.参照)。私たちが普通に意識と考えているのは実はチッタ、つまり瞬間的な認識活動の連続です。個々のチッタは様々ですが、あまりにもスピードが速いため私たちはそれを分けて観察することが出来ません。アビダンマは様々なチッタを識別するのみならず、それをコスモス、つまり統合され相互に絡み合った全体の中で秩序立てて記述しています。

その目的に合わせて、アビダンマはいくつかの基本的な分類法を用いていますが、中には重複するものもあります。サンガハのこのセクションで紹介する第一番目の分類はチッタを「意識が活動する領域(ブーミ)」で分ける方法です。意識の活動領域には四つあります。そのうち三つはローキヤ(涅槃を悟っていない普通の人たちの意識の領域)に属し、(1)カーマーヴァチャラ(感覚の喜びを追い求める意識の領域)、(2)ルーパーヴァチャラ(物質を対象として禅定に入った人たちの意識の領域)、(3)アルーパーヴァチャラ(物質ではない対象を用いて禅定に入った人たちの意識の領域)の三つがあります。四番目は「ロークッタラ」(涅槃を悟った聖者たちの意識の領域)です。最初の三つに使われている「アヴァチャラ」という言葉は、「そこで動き回る、あるいはそこに特に頻繁に現れる」という意味です。チッタの属する場所は「存在の領域」(これもブーミです)、すなわち(1)感覚の喜びを追い求める存在領域、(2)物質を対象として禅定に入った人たちの存在領域、(3)物質ではない対象を用いて禅定に入った人たちの存在領域、の三つに準じて名前が付けられています。「意識の活動領域」は、同じ名前を持つ「存在の領域」と密接な関係がありますが、全く同じという分けではありません。「意識の活動領域」はチッタを分類するためのカテゴリーであり、一方「存在の領域」は生命が輪廻転生し、そこで生存する場所ないし世界のことです。

それでも、「意識の活動領域」と「存在の領域」の間には明確な関係があります。特定の「意識の活動領域」には、対応する「存在の領域」に典型的でそこで最も頻繁に生じる種類のチッタが含まれます。特定の「意識の活動領域」に属するチッタは対応する「存在の領域」に限定されるわけではなく、他の「存在の領域」に現れることもあります。例えばルーパーヴァチャラチッタ(物質を対象にした禅定に関連する意識の領域のチッタ)がカーマブーミ(感覚的な楽しみを追い求める生存世界)に現れることがあります。またカーマーヴァチャラチッタ(感覚的な楽しみを求める意識の領域のチッタ)がルーパブーミ(物質を対象とした禅定に関連する、微細な物質からなる存在領域)に現れることがあります。しかし、それでも、ある「意識の活動領域」が、名前が同じ「存在の領域」に典型的であるという点でやはり関連があります。さらに、特定の「存在の領域」に生じたカンマ(業)を作る力を持ったチッタはその生命を、対応する「存在の領域」に輪廻転生させる傾向があります。そしてそうしたカンマ(業)を作り出すチッタが首尾よく輪廻転生をもたらす機会に恵まれた場合には、対応する「存在の領域」にだけ転生させます。他の「存在の領域」に転生させることはありません。ですから「意識の活動領域」と対応する「存在の領域」は極めて近い関係にあります。

カーマーヴァチャラチッタ:カーマという言葉には二つの意味があり、一つは例えば感覚的な楽しみを渇望するといった主観的な官能的欲望、そしてもう一つは例えば目に見える形、音、臭い、味、触感という五つの外部の感覚対象など、客観的に感じ取ることです。カーマブーミは「感覚の喜びを追い求める存在の領域」であり11個あります。四つの悲惨な下層世界(地獄、餓鬼、畜生、阿修羅)、人間界、感覚の喜びを追い求める六つの天界(六欲天)です。カーマーヴァチャラチッタ(感覚的な楽しみを追い求める意識の領域)にはカーマブーミ(感覚的な楽しみを追い求める生存世界)を主な領域とするチッタが全て含まれますが、他の「存在の領域」に生じることもあります。

ルーパーヴァチャラチッタ:ルーパーヴァチャラチッタはルーパブーミ(物質を対象にした禅定に関連する微細な物質からなる生存領域)に相当する「意識の活動領域」、あるいはルーパッジャーナ(物質を対象にした禅定)と呼ばれる禅定に関連した「意識の活動領域」です。ルーパッジャーナは地のカスィナ(円盤:第11章、第6節参照)や自分の身体の一部など、物質(ルーパ)を瞑想対象として得られた禅定であり、そのためルーパッジャーナ(物質を対象にした禅定)と呼ばれています。そうした瞑想対象は禅定を育むための土台となります。物資的対象を基にして得られた高いレベルのチッタがルーパーヴァチャラチッタ(物質を対象にした禅定に関連する意識の領域のチッタ)と呼ばれます。

アルーパーヴァチャラチッタ:アルーパーヴァチャラチッタはアルーパブーミ(物質でないものを対象にした禅定に関連する生存領域)に相当する「意識の活動領域」、あるいはアルーパッジャーナと呼ばれる禅定に関連した「意識の活動領域」です。主にこの領域で活動するチッタはアルーパーヴァチャラ(物質でないものを対象にした禅定に関連する意識の領域)に属すると理解されています。ルーパッジャーナ(物質を対象とした禅定)のレベルを超えた形の無い瞑想状態を得ようとする修行者は物質的な形態に関連した全ての瞑想対象を捨て去り、例えば空間の無限性など物質ではない瞑想対象に集中しなければなりません。そうした物資的ではない対象を基にして得られた高いレベルのチッタがアルーパーヴァチャラチッタ(物質でないものを対象にした禅定に関連する意識の領域のチッタ)と呼ばれます。

ロークッタラチッタ:ロークッタラは「世界」を意味するローカと「乗り越えた」、「超越した」という意味のウッタラに由来した言葉です。ローカには三つの概念があります。サッタローカ(生命の世界)、オーカーサローカ(物質からなる宇宙)、そしてサンカーラローカ(作られた世界)、すなわち物質と心という条件づけられた現象が統合されたものです。ここで使うローカはサンカーラ、つまりパンチャカンダ(五つの執着の塊)の中に含まれる全ての俗世間的な現象の世界、サンカーラローカのことです。条件づけられた事象の世界を超越したもの、それが条件に左右されることのないニッバーナ(涅槃)です。そしてニッバーナ(涅槃)の悟りを直接成就させるチッタがロークッタラチッタと呼ばれます。ロークッタラ以外の三つのチッタはロークッタラチッタと区別するためにローキヤチッタ(涅槃を悟っていない普通の生命の意識の領域におけるチッタ)と呼ばれています。

このようにチッタはそれが活動する世界によって大きく四つに分けることが出来ます。カーマーヴァチャラ(感覚的な楽しみを追い求める意識の領域における)チッタ、ルーパーヴァチャラ(物質を対象にした禅定に関連する意識の領域の)チッタ、アルーパーヴァチャラ(物質ではないものを対象にした禅定に関連する意識の領域の)チッタ、ロークッタラ(涅槃を悟った聖者の意識の領域における)チッタの四つです。チッタは他の基準により分類することも出来ます。アビダンマ哲学において大切な分類基準の一つはジャーティ(種類ないし性質)です。チッタはその性質に基づいて、アクサラ(不善業を作る)チッタ、クサラ(善業を作る)チッタ、ヴィパーカ(業の結果として生じる)チッタ、キリヤ(機能だけの)チッタ、の四種類に分けられます。アクサラ(不善業を作る)チッタにはローバ(欲)、ドーサ(怒り)、モーハ(真理が分からず混乱した状態)という三つの不善な、ヘートゥ(チッタを安定させる根)のうち一つないし二つが付随します。こうしたチッタがアクサラ(不善)と呼ばれるのは精神的に不健全であり、道徳的に非難され、痛ましい結果をもたらすからです。クサラチッタにはアローバ(正しい生き方を目指して欲から離れること)ないし寛大、アドーサ(正しい生き方を目指して怒りから離れること)ないし慈しみ、アモーハ(正しい生き方を目指し、智慧がないため真理が分からず混乱した状態から離れること)ないし智慧といった善なる、ヘートゥ(チッタを安定させる根)が付随します。そうしたチッタは精神的に健全で、道徳的に避難されることがなく、好ましい結果をもたらします。

アクサラ(不善業を作る)チッタ、クサラチッタ(善業を作る)チッタはともにカンマ(業)、即ち意志を伴った行為の構成要素となります。一方、カンマ(業)が熟し、その結果として現れるのがヴィパーカ(業の結果として生じる)チッタです。ヴィパーカチッタはアクサラ(不善業を作る)チッタ、クサラ(善業を作る)チッタとは異なる第三の種類のチッタを構成します。そしてアクサラカンマ(不善業)の結果、クサラカンマ(善業)の結果、の両方を含みます。カンマ(業)もその結果も純粋に精神的なものであることを理解しておかなければなりません。カンマ(業)は意志の活動であり、アクサラ(不善業を作る)チッタないしクサラ(善業を作る)チッタを伴います。その結果として別のチッタ(ヴィパーカチッタ)が生じて、そのチッタが熟したカンマ(業)を経験することになります。

チッタをその性質で分類した場合の四番目はパーリではキリヤないしクリヤーと呼ばれるチッタです。この本では「機能」という訳語をあてています。この種類のチッタはカンマ(業)そのものでもカンマ(業)の結果でもありません。キリヤチッタ(機能だけのチッタ)も活動はしますが、その活動はカンマ(業)を作ることは無く、カンマ(業)の結果をもたらす力もありません。

ヴィパーカ(業の結果として生じる)チッタ、キリヤ(働きだけの)チッタはアクサラ(不善業を作る)でもクサラ(善業を作る)でもありません。アクサラ(不善業を作る)、クサラ(善業を作る)の範疇に入らない(アビャーカタ)、言い換えればアクサラ(不善業を作る)、クサラ(善業を作る)という二つの分け方があてはまらないチッタです。

カーマーヴァチャラチッタ(感覚的な楽しみを追い求める意識の領域のチッタ)

アクサラ(不善業を作る)チッタ

第4節 ローバムーラチッタ(欲という、チッタを安定させる根を持つチッタ):8種類

タター カタナン カーマーヴァチャラン?
1、ソーマナッササハガタン ディッテイガタサンパユッタン アサンカーリカン 
エーカン
2、ソーマナッササハガタン ディッテイガタサンパユッタン ササンカーリカン 
エーカン
3、ソーマナッササハガタン ディッテイガタヴィッパユッタン アサンカーリカン エーカン
4、ソーマナッササハガタン ディッテイガタヴィッパユッタン ササンカーリカン エーカン
5、ウペッカーサハガタン ディッテイガタサンパユッタン アサンカーリカン 
エーカン
6、ウペッカーサハガタン ディッテイガタサンパユッタン ササンカーリカン 
エーカン
7、ウペッカーサハガタン ディッテイガタヴィッパユッタン アサンカーリカン エーカン
8、ウペッカーサハガタン ディッテイガタヴィッパユッタン ササンカーリカン エーカン

イマーニー アッタ ピ ローバサハーガタチッターニ ナーメ

それらのチッタの中でカーマーヴァチャラ(感覚的な楽しみを追い求める意識の領域)に属するのは何でしょうか?

1、ソーマナッサ(精神的な楽しさ)を伴い、ディッティ(聖なる真理にそぐわない誤った見解)が付随する、アサンカーリカ(駆り立てるものがない)チッタ
2、ソーマナッサ(精神的な楽しさ)を伴い、ディッティ(聖なる真理にそぐわない誤った見解)が付随する、ササンカーリカ(駆り立てるものがある)チッタ
3、ソーマナッサ(精神的な楽しさ)を伴い、ディッティ(聖なる真理にそぐわない誤った見解)が付随しない、アサンカーリカ(駆り立てるものがない)チッタ
4、ソーマナッサ(精神的な楽しさ)を伴い、ディッティ(聖なる真理にそぐわない誤った見解)が付随しない、ササンカーリカ(駆り立てるものがある)チッタ
5、ウペッカー(苦しくも楽しくもない状態)を伴い、ディッティ(聖なる真理にそぐわない誤った見解)が付随する、アサンカーリカ(駆り立てるものがない)チッタ
6、ウペッカー(苦しくも楽しくもない状態)を伴い、ディッティ(聖なる真理にそぐわない誤った見解)が付随する、ササンカーリカ(駆り立てるものがある)チッタ
7、ウペッカー(苦しくも楽しくもない状態)を伴い、ディッティ(聖なる真理にそぐわない誤った見解)が付随しない、アサンカーリカ(駆り立てるものがない)チッタ
8、ウペッカー(苦しくも楽しくもない状態)を伴い、ディッティ(聖なる真理にそぐわない誤った見解)が付随しない、ササンカーリカ(駆り立てるものがある)チッタ

第4節へのガイド

アクサラ(不善業を作る)チッタ:アクサラチッタのヘートゥないしムーラ(チッタを安定させる根)にはローバ(欲)、ドーサ(怒り)、モーハ(真理が分からず混乱した状態)の三つがありますが、アビダンマでは最初に最も顕著なヘートゥ、ムーラ(チッタを安定させる根)がそのうちのどれであるかによりチッタを分類します。アビダンマによればローバ(欲)とドーサ(怒り)は互いに排他的な関係にあり、この二つが一つのチッタに同時に存在することはありません。そしてローバ(欲)をヘートゥ、ムーラ(チッタを安定させる根)とするチッタはローバムーラチッタ(欲という、チッタを安定させる根を持つチッタ)と呼ばれ、八つあります。ドーサ(怒り)をヘートゥ、ムーラ(チッタを安定させる根)とするチッタはドーサムーラ(怒りという、チッタを安定させる根を持つ)チッタと呼ばれ二つあります。三番目のヘートゥ、ムーラ(チッタを安定させる根)であるモーハ(聖なる真理が分からず混乱した状態)は全てのアクサラ(不善業を作る)チッタに存在します。ですからローバムーラ(欲という、チッタを安定させる根を持つ)チッタもドーサムーラ(怒りという、チッタを安定させる根を持つ)チッタもその根底にモーハ(聖なる真理が分からず混乱した状態)が存在します。一方でモーハ(真理が分からず混乱した状態)のみが生じ、ローバ(欲)やドーサ(怒り)を伴わないチッタが二つあり、モーハ(真理が分からず混乱した状態)だけに関わるチッタ、あるいはモーハムーラ(真理が分からず混乱した状態という、チッタを安定させる根を持つ)チッタと呼ばれています。(表1.2.参照)

ローバムーラ(欲という、チッタを安定させる根を持つ)チッタ:アビダンマでは三つの不善なヘートゥ、ムーラ(チッタを安定させる根)のうち常にローバ(欲)を最初にとりあげます。ですからここでも三種類のアクサラ(不善業を作る)チッタのうちローバ(欲)という、ヘートゥ(チッタを安定させる根)を持つものをまず最初に分類します。パーリとしてのローバ(欲)という言葉はあらゆる欲を全て含みます。強い情動ないし貪欲から、かすかな好みないし執着まで含まれます。ローバ(欲)という、ヘートゥ(チッタを安定させる根)を持つチッタは三つの原則に基づき八つに分類されます。一番目の原則は同時に生じるヴェーダナー(感受)、つまりソーマナッサ(精神的な楽しみ)とウペッカー(苦しくも楽しくもない状態)のどちらを伴うかです。2番目の原則はディッティ(聖なる真理にそぐわない誤った見解)を付随するどうかです。3番目の原則はアサンカーリカ(駆り立てるものがない)かササンカーリカ(駆り立てるものがある)かです。この三つに従って順に区別すると八つになります。

ソーマナッササハガタ(精神的な楽しさを伴う):ソーマナッサという言葉はス(楽しい)とマナス(精神)に由来しています。ですからソーマナッサの文字通りの意味は「楽しい精神状態」 となります。ソーマナッサはヴェーダナー(感受)の一種であり、具体的には楽しいという精神的な感受です。チッタは全てなんらかのヴェーダナー(感受)を伴います。身体で感じるものもあれば精神的なものもあります。楽しいもの、苦痛を伴うもの、そのどちらでもないものがあります。ソーマナッサは身体ではなく精神的なものであり、楽しいという感受です。この感受はその種類に分類されるチッタに伴います(サハーガタ)。感受とチッタが一体化し分けることができないという意味です。二つの川の水が合流して一緒になると、もとの二つの川の水に分けることできないとの同じです。

アビダンマはローバ(欲)という、ヘートゥ(チッタを安定させる根)を持ち、ソーマナッサ(精神的な喜び)を伴うチッタが四つあると説明しています。同じ仲間のチッタのうち、残る四つはウペッカー(苦しくも楽しくもない状態)を伴います(ウペッカーサハガタ)。パーリ経典ではウペッカーを偏りの無い崇高な精神状態、偏見や好みに左右されない精神状態という意味で使うことがよくあります。しかし、ここでは単に喜びにも落胆にも当てはまらない中間的な感受という意味で使っています。このためウペッカーはアドゥッカンアスッカーヴェーダナー(苦しみでも楽しみでもない感受)とも呼ばれます。

ディッテイガタサンパユッタ(真理にそぐわない誤った見解が付随する):ローバ(欲)という、チッタを安定させる根を持つチッタをソーマナッサ(精神的な楽しさ)が伴うか、それともウペッカー(苦しくも楽しくもない状態)が伴うかで二つに分類した後、ディッティ(聖なる真理にそぐわない誤った見解)が付随するかどうかに基づいて二つに分類します。ディッティという言葉の意味は「見解」ですが、サンマー(真理に適った正しい)という接頭辞がつかない場合は一般的にミッチャーディッティ(真理にそぐわない誤った見解)のことを差します。ディッティは信念、信条、意見、合理化としてローバ(欲)という、チッタを安定させる根を持つチッタに関連します。ディッティは理屈をつけて正当化することで、ローバ(欲)という、チッタを安定させる根を持つチッタの根本原因である「執着」を強めます。あるいはディッティ自体が「執着」の対象となります。ディッティは四種類のチッタに関連し、そのうち二つはソーマナッサ(精神的な楽しさ)を、そして残りの二つはウペッカー(苦しくも楽しくもない状態)を伴います。あとの四つのチッタはディッティとの関連はありません(ディッティガタヴィッパユッタ)。ディッティがもたらす正当化が伴うことは無く、ローバ(欲)それ自体がチッタを働かせます。

アサンカーリカ:三番目の分類の基準はサンカーラ(駆り立てるもの)があるかどうかです。サンカーラには複数の意味がありますが、ここで使うサンカーラはアビダンマ特有で、駆り立てる、そそのかす、誘導する(パヨーガ)、あるいはある目的に沿ってなんらかの処置をとる(ウパーヤ)、という意味で使われています。サンカーラは外部から強いられることもあれば、自分自身の中に生じることもあります。身体を使うこともあれば、言葉を使うこともあり、あるいは純粋に精神的な場合もあります。誰かが身体を使って私たちに働きかけ、その結果として特有のチッタが生じ、それに応じた行動をとった場合、身体が手段になっています。他者が命令したり、権力をかさに着て説得したりする場合は言葉が手段となっています。思考や決意に基づいて、してはいけないと思いつつ故意に特定のチッタが生じるように仕向けた場合は精神的なものになります。後から説明しますが、サンカーラはクサラ(善業を作る)チッタにもアクサラ(不善業を作る)チッタのどちらにも関連する可能性があります。駆り立てられることも誘導されることもなく、自発的に生じるチッタはアサンカーリカ(駆り立てるものがない)チッタと呼ばれます。また何らかの手段で駆り立てられ、あるいは誘導されて生じるチッタはササンカーリカ(駆り立てるものがある)チッタと呼ばれます。ローバ(欲)という、ヘートゥ(チッタを安定させる根)を持つ八つのチッタのうち、四つはアサンカーリカ(駆り立てるもののない)で、残りの四つがササンカーリカ(駆り立てるものがある)です。

第5節 ドーサムーラチッタ(怒りという、チッタを安定させる根を持つチッタ):2種類

9、ドーマナッササハガタン パティガサンパユッタン アサンカーリカ エーカン
10、ドーマナッササハガタン パティガサンパユッタン ササンカーリカ エーカン

イマー二 ドゥヴェー ピ パティガサンパユッターニ ナーマ

9、ドーマナッサ(精神的な苦しみ)を伴い、パティガ(嫌悪)が付随する、アサンカーリカ(駆り立てるものがない)チッタ
10、ドーマナッサ(精神的な苦しみ)を伴い、パティガ(嫌悪)が付随する、ササンカーリカ(駆り立てるものがある)チッタ

この二つがパティガ(嫌悪)に関連するチッタです。

第5節へのガイド

ドーサムーラ(怒りという、チッタを安定させる根を持つ)チッタ:アビダンマの分析によるアクサラ(不善業を作る)チッタの二組目は、三種類ある不善なヘートゥ、ムーラ(チッタを安定させる根)の二番目、ドーサ(怒り)というヘートゥ(チッタを安定させる根)を持つチッタです。このチッタはアサンカーリカ(駆り立てるもののない)、ササンカーリカ(駆り立てるものがある)の二種類だけです。ローバ(欲)というヘートゥ(チッタを安定させる根)を持つチッタの場合は感受としてソーマナッサ(精神的な楽しさ)を伴う場合と、ウペッカー(苦しくも楽しくもない状態)を伴う場合がありますが、ドーサ(怒り)というヘートゥ(チッタを安定させる根)を持つチッタの場合、感受としてはドーマナッサ(精神的な苦しみ)が伴うだけです。またローバ(欲)というヘートゥ(チッタを安定させる根)を持つチッタと異なり、ドーサ(怒り)というヘートゥ(チッタを安定させる根)を持つチッタにはディッティ(真理にそぐわない誤った見解)が付随することはありません。ディッティはドーサ(怒り)のきっかけとなりますが、アビダンマではディッティ(真理にそぐわない誤った見解)とドーサ(怒り)が同じチッタに同時に生じることはなく、ディッティ(真理にそぐわない誤った見解)は先行する別のチッタに生じるとされています。

ドーマナッササハーガタ(精神的な苦しみを伴う):ドーサ(怒り)という、チッタを安定させる根を持つチッタに伴う感受はドーマナッサ(精神的な苦しみ)です。パーリにおけるドーマナッサという言葉はドゥ(悪い)とマナス(精神)に由来し、精神的な苦しみを意味します。ドーマナッサという感受が伴うのはドーサ(怒り)という、ヘートゥ(チッタを安定させる根)を持つチッタだけです。ですからドーマナッサ(精神的苦しみ)は常にアクサラ(不善業を作る)です。この点ではドーマナッサはカンマ(業)を作らないドゥッカ(身体で感じる苦しみ)とは異なります。またアクサラ(不善業を作る)、クサラ(善業を作る)、あるいはそのどちらにも当てはまらない場合があるソーマナッサ(精神的な楽しみ)やウペッカー(苦しくも楽しくもない状態)とも異なります。

パティガサンパユッタ(嫌悪を伴う):ローバ(欲)というヘートゥ(チッタを安定させる根)を持つチッタに欲が伴うことは明らかですが、ドーサ(怒り)というヘートゥ(チッタを安定させる根)を持つチッタはドーサ(怒り)の同義語であるパティガ(嫌悪)という言葉を用いて説明されています。パティガ(嫌悪)には激しい憤怒からかすかな苛立ちまで全てが含まれます。パティガ(嫌悪)の文字通りの意味は「衝突する」であり、抵抗、拒否、破壊といった精神状態を差しています。

ドーマナッサ(精神的な苦しみ)とパティガ(嫌悪)は常に同時に生じますが、その性質は区別して理解する必要があります。ドーマナッサ(精神的な苦しみ)は不快な感受の経験、パティガ(嫌悪)は悪意、いらつきといった精神的態度です。パンチャカンダ(生命を構成する五つの塊)の観点から見るとソーマナッサ(精神的な楽しさ)はヴェーダナーカンダ(感受という塊)に含まれ、パティガ(嫌悪)はサンカーラカンダ(精神的形成作用という塊)に属します。

第6節 モーハムーラチッタ(真理がわからず混乱した状態という、チッタを安定させる根を持つチッタ)

11、ウペッカーサハガタン ヴィチキッチャーサンパユッタン エーカン
12、ウペッカーサハガタン ウッダッチャサンパユッタン エーカン ティ
イマー二 ドゥヴェー モームーハチッターニ ナーマ
イッチェーワン サッバター ピ ドゥワーダサークサラチッターニ サマッター二

11、ウペッカー(苦しくも楽しくもない状態)が伴い、ヴィチキッチャー(ブッダ・ダンマ・サンガとその教えに対する疑い)が付随するチッタ
12、ウペッカー(苦しくも楽しくもない状態)が伴い、ウッダッチャ(不穏、興奮)が付随するチッタ
この2種類のチッタはモームーハ(モーハが顕著に表れる)チッタです。
このように、アクサラ(不善業を作る)チッタは全部で12種類あります。

第6節へのガイド

モーハムーラチッタ(真理がわからず混乱した状態という、チッタを安定させる根を持つチッタ):アクサラ(不善業を作る)チッタの最後の組に属するチッタはローバ(欲)やドーサ(怒り)という、ヘートゥ(チッタを安定させる根)を伴いません。通常、ローバ(欲)やドーサ(怒り)が生じる際にはモーハ(真理が分からず混乱した状態)が先行しますが、その場合は、モーハ(真理が分からず混乱した状態)は主役ではありません。しかし、この最後の二つのチッタの場合は、不善なムーラ(チッタを安定させる根)として存在するのはモーハ(真理が分からず混乱した状態)のみです。そのためモーハ(真理が分からず混乱した状態)というヘートゥ(チッタを安定させる根)を持つチッタと呼ばれます。この二つのチッタにはモーハ(真理が分からず混乱した状態)の機能がとりわけ明瞭に現れるのでモームーハチッタ(純粋にモーハに関連するチッタ)とも呼ばれます。モームーハというパーリ用語はモーハが強化されたという意味です。モーハが顕著となるチッタは二つあり、一つはヴィチキッチャー(ブッダ・ダンマ・サンガとその教えに対する疑い)が、そしてもう一つはウッダッチャ(不穏、興奮)が付随します。

ウペッカーサハガタ(苦しくも楽しくもない状態状態が伴う):好ましい対象が現れても、モーハ(真理が分からずに混乱した状態)が生じるとその対象を好ましいものとして経験することはなく、したがってソーマナッサ(精神的な喜び)も生じません。同様に好ましくない対象が現れてもそれを好ましくないものとして経験することはなく、ドーマナッサ(精神的苦しみ)が生じることもありません。さらに、ヴィチキッチャー(ブッダ・ダンマ・サンガとその教えに対する疑い)やウッダッチャ(不穏、興奮)で頭がいっぱいになると対象が好ましいか、好ましくないかの判断も出来なくなり、楽しいとか苦しいなどの感受も生じなくなります。このような理由で、この二つのチッタに伴うのはウペッカー(苦しくも楽しくもない状態)という中立的な感受となります。

ヴィチキッチャーサンパユッタ(ブッダ・ダンマ・サンガとその教えに対する疑いが伴う):注釈書はヴィチキッチャーの語源について二通りの説明をしています。(1)あれこれと複雑に考えることでいらついた状態、(2)知識により心をいやすことが出来なくなった状態、の二つです。この二つの説明ともに、ヴィチキッチャーの意味を、モーハ(真理が分からず混乱した状態)がはびこったために生じた混乱、懐疑、優柔不断であること示しています。ヴィチキッチャーを伴うチッタが、モーハ(真理が分からず混乱した状態)というヘートゥ(チッタを安定させる根)を持つチッタの一番目です。

ウッダッチャサンパユッタ(不穏、興奮に関連する):ウッダッチャは不穏、精神的散乱、ないし興奮です。そしてこのウッダッチャに感染したチッタがモーハ(真理が分からず混乱した状態)というヘートゥ(チッタを安定させる根)を持つチッタの二番目となります。アビダンマによればウッダッチャ(不穏・興奮)という精神的要素は12個あるアクサラ(不善業を作る)チッタの全てに見られます(第2章、第13節参照)。しかし他の11個のアクサラ(不善業を作る)チッタでは、ウッダッチャ(不穏・興奮)は比較的弱く、その機能は二次的です。しかしこの11番目のチッタではウッダッチャ(不穏・興奮)が最も優勢な要素となります。このためこのチッタはウッダッチャ(不穏・興奮)を伴うチッタと表現されています。

モーハ(真理が分からず混乱した状態)というヘートゥ(チッタを安定させる根)を持つこの二つのチッタにはアサンカーリカ(駆り立てるものがない)、ササンカーリカ(駆り立てるものがある)という観点での評価はされていないことに留意してください。その理由については注釈書により異なる説明がなされています。ヴィシュディマッガ(清浄道論)の注釈書であるヴィバーヴィニー・ティーカーとマハー・ティーカーではアサンカーリカ(駆り立てるものがない)、ササンカーリカ(駆り立てるものがある)のどちらも当てはまるためサンカーラ(駆り立てるもの)に基づく区別は省略されていると説明しています。この二つのチッタは本来差し迫ったものではないという観点からみればアサンカーリカ(駆り立てるものがない)と表現することはできず、また意図的にこの二つのチッタを生じされるような場面はないという観点からササンカーリカ(駆り立てるものがある)と表現することも出来ないとしています。一方、レディセヤドーはこの立場に反対しており、この二つのチッタは間違いなくアサンカーリカ(駆り立てるものがない)であるとしています。この二つのチッタは生命に本来備わった性質により自然に生じるものであり、その出現を誘導するものも、出現させる手段も必要ないとしています。この二つは常に何の問題も困難もなく生じるため、明らかにアサンカーリカ(駆り立てるものがない)であり、それがここでサンカーラ(駆り立てるもの)による区別をしていない理由であると述べています。

第7節 アクサラ(不善業を作る)チッタのまとめ

アッタダー ローバムーラーニ
ドーサムーラーニ チャ ドゥヴィダー
モーハムーラーニ チャ ドゥヴェーティ
ドゥヴァーダークサラスィユム

8つがローバ(欲)というムーラ(チッタを安定させる根)を持ち、2つがドーサ(怒り)というムーラ(チッタを安定させる根)を持ち、2つがモーハ(聖なる真理にが分からず混乱した状態)というムーラ(チッタを安定させる根)を持ちます。このようにアクサラ(不善業を作る)チッタは12種類あります。

ローバ(欲)というムーラ(チッタを安定させる根)を持つ八種類のチッタについて分かりやすい例をあげると次のようになるかと思います。

1、楽しみながら、盗みは邪な行為ではないという間違った見方で、少年が自発的に果物屋の屋台からリンゴを一つ盗む。
2、楽しみながら、盗みは邪な行為ではないという間違った見方で、少年が友達にそそのかされて果物屋の屋台からリンゴを一つ盗む。
3、楽しみながら、盗みは邪な行為ではないという間違った見方はもっていないけれども、少年が自発的に果物屋の屋台からリンゴを一つ盗む。
4、楽しみながら、盗みは邪な行為ではないという間違った見方はもっていないけれども、少年が友達にそそのかされて果物屋の屋台からリンゴを一つ盗む。
5、楽しみも苦しみも感じることなく、盗みは邪な行為ではないという間違った見方で、少年が自発的に果物屋の屋台からリンゴを一つ盗む。
6、楽しみも苦しみも感じることなく、盗みは邪な行為ではないという間違った見方で、少年が友達にそそのかされて果物屋の屋台からリンゴを一つ盗む。
7、楽しみも苦しみも感じることなく、盗みは邪な行為ではないという間違った見方はもっていないけれども、少年が自発的に果物屋の屋台からリンゴを一つ盗む。
8、楽しみも苦しみも感じることなく、盗みは邪な行為ではないという間違った見方はもっていないけれども、少年が友達にそそのかされて果物屋の屋台からリンゴを一つ盗む。

ドーサ(怒り)という、ムーラ(チッタを安定させる根)を持つ二種類のチッタについて分かりやすい例をあげると次のようになるかと思います。

9、憎悪を抱いた人が発作的に生じた強い怒りにまかせ偶発的に他の人を殺す。
10、憎悪を抱いた人が事前に殺そうと考えたうえで他の人を殺す。

モーハ(真理が分からず混乱した状態)というムーラ(チッタを安定させる根)を持つ二種類のチッタについて分かりやすい例をあげると次のようになるかと思います。

11、ある人が、聖なる真理に対する無知のためにブッダの覚りを疑ったり、解脱への道標となるダンマへの効用を疑ったりする。
12、ある人が、心があまりにも散乱していて、いかなる対象にも心を集中させることが出来ない。

アヘートゥカチッタ(チッタを安定させる根を持たないチッタ):18種類

第8節 アクサラヴィパーカチッタ(不善業の結果として生じるチッタ):7種類

(1)ウペッカーサハガタン チャックヴィンニャーナン;タター
(2)ソータヴィンニャーナン、(3)ガーナヴィンニャーナン、
(4)ジヴァーヴィンニャーナン;(5)ドゥッカサハーガタン カーヤヴィンニャーナン;(6)ウペッカーサハガタン サンパティッチャナチッタン;
(7)ウペッカーサハガタン サンティーラナチッタン チャー ティ イマーニ 
サッタ ピ アクサラヴィパーカチッターニナーマ

(1)ウペッカー(苦しくも楽しくもない状態)を伴う、眼のヴィンニャーナ(感覚が生じたという意識)、(2)ウペッカー(苦しくも楽しくもない状態)を伴う、耳のヴィンニャーナ(感覚を感じたという意識)、(3)ウペッカー(苦しくも楽しくもない状態)を伴う、鼻のヴィンニャーナ(感覚を感じたという意識)、(4)ウペッカー(苦しくも楽しくもない状態)を伴う、舌のヴィンニャーナ(感覚を感じたという意識)、(5)ドゥッカ(苦しみ)を伴う、身体のヴィンニャーナ(感覚を感じたという意識)、(6)ウペッカー(苦しくも楽しくもない状態)を伴う、サンパティッチャナ(対象を受けとめる)チッタ、(7)ウペッカー(苦しくも楽しくもない状態)を伴う、サンティーラナ(対象を調べる)チッタ、この七つがアクサラヴィパーカ(不善業の結果として生じる)チッタです。

第8節へのガイド

アヘートゥカチッタ(チッタを安定させる根を持たないチッタ):アヘートゥカはヘートゥ(チッタを安定させる根)が無いという意味の言葉です。ヘートゥ(チッタを安定させる根)という精神的要素が無い種類のチッタがこれに当てはまります。18種類あるこのクラスのチッタはローバ(欲)、ドーサ(怒り)、モーハ(真理がわからず混乱した状態)という三つのアクサラ(不善業を作る)ヘートゥ(チッタを安定させる根)を含みません。そして、アローバ(正しい生き方を目指して欲から離れること)、アドーサ(正しい生き方を目指して怒りから離れること)、アモーハ(正しい生き方を目指し、智慧がないため真理が分からず混乱した状態から離れること)という三つのクサラ(善業を作る)ヘートゥ(チッタを安定させる根)も含みません。アローバ(正しい生き方を目指して欲から離れること)、アドーサ(正しい生き方を目指して怒りから離れること)、アモーハ(正しい生き方を目指し、智慧がないため真理が分からず混乱した状態から離れること)はクサラ(善業を作る)である場合もあれば、クサラ(善業を作る)でもアクサラ(不善業を作る)でもない場合もあります。ヘートゥ(チッタを安定させる根)はチッタの安定性を築く要素であり、ヘートゥ(チッタを安定させる根)を含まないチッタはそれを含むチッタよりも弱いとされています。18あるこのクラスのチッタは三つのグループに分かれます。アクサラヴィパーカ(不善業の結果として生じる)チッタ、クサラヴィパーカ(善業の結果として生じる)チッタ、キリヤ(機能だけの)チッタ、の三つです(表1.3.参照)。

アクサラヴィパーカチッタ(不善業の結果として生じるチッタ):アヘートゥカチッタ(チッタを安定させる根を持たないチッタ)の最初のカテゴリーはアクサラカンマ(不善業)の結果として生じる七つのチッタからなります。この種のチッタは、それ自体はアクサラ(不善を作る)ではありません。業の観点からはアクサラ(不善業を作る)でもクサラ(善業を作る)でもありません(アビャーカタ)。ここではアクサラカンマ(不善業)の結果として生じたという意味でアクサラ(不善)という言葉を用いています。したがってアクサラ(不善)はチッタそのものではなくチッタが生じる元となったカンマの性質を示しています。

チャックヴィンニャーナ(眼に感覚を感じたという意識):アクサラヴィパーカ(不善業の結果として生じた)、クサラヴィパーカ(善業の結果として生じた)どちらのグループも、最初の五種類のヴィパーカチッタ(業の結果として生じるチッタ)は眼、耳、鼻、舌、身体に感覚を生じさせる物質(パサーダ)に基づくチッタです。これら10個のチッタを合わせて、ドゥヴィパンチャヴィンニャーナ(五つのヴィンニャーナが二組)と呼ばれています。チャックヴィンニャーナ(眼に感覚を感じたという意識)はチャックパサーダ(眼の感覚)を基にして生じます。その機能は単に見ること、つまり視覚対象を直接かつ即座に認識することです。他のタイプのヴィンニャーナ(感覚を感じたという意識)もそれぞれの感覚に基づいて生じ、その働きはそれぞれの感覚対象を認識すること、すなわち音を聞き、臭いを嗅ぎ、味を味わい、触れたものを感じ取ることです。アクサラヴィパーカ(不善業の結果として生じた)チッタの場合は、感覚対象は不快で望ましくないものとなります(アニッタ)。しかしながら、最初の四つの感覚器官については、感覚対象の印象が弱いため、随伴する感受はウペッカー(苦しくも楽しくもない状態)となります。しかし、アクサラヴィパーカカーヤヴィンニャーナン(不善業の結果として生じる、身体に感覚を感じたという意識)は身体という感覚器官に対する感覚対象の印象が強いため、ドゥッカ(身体の痛みという苦しみ)が伴います。

サンパティッチャナチッタ(感覚対象を受けとめるチッタ):たとえば眼に見える形など感覚対象が五つの感覚門のどれかに衝突すると、その感覚対象に意識を向けるチッタが生じます。直後に、その形を見ることで視覚が生まれます。この見るという行為は心の時間単位(チッタッカナ:一つのチッタが現れてから消えるまでの時間)一個分というごく短い時間しか続きません。その直後に今度は視覚によって見た対象を補足するないし受けとめるチッタが生じます。これがサンパティッチャナチッタ(感覚対象を受けとめるチッタ)です。そしてこのチッタはチャックヴィンニャーナ(眼に感覚を感じたという意識)を作り出したのと同じ業の結果として生じます。

サンティラナチッタ(感覚対象を調べるチッタ):これはもう一つのアヘートゥカヴィパーカチッタ(チッタを安定させる根を持たず、業の結果として生じるチッタ)で、サンパティッチャナチッタ(感覚対象を受けとめるチッタ)のすぐ後に生じます。その働きはチャックヴィンニャーナ(眼に感覚を感じたという意識)などのヴィンニャーナ(感覚を感じたという意識)により認識され、サンパティッチャナチッタ(感覚対象を受けとめるチッタ)により受けとめた感覚対象を調査、吟味することです。サンパティッチャナチッタ(感覚対象を受けとめるチッタ)も、サンティーラナチッタ(感覚対象を調べるチッタ)もともに感覚器官にしか生じません。そしてどちらも過去のカンマ(業)の結果です。

第9節 クサラアヘートゥカヴィパーカチッタ(チッタを安定させる根を持たず、善業の結果として生じるチッタ):8種類

(8)ウペッカーサハガタン チャックヴィンニャーナン;タター
(9)ソータヴィンニャーナン;
(10)ガーナヴィンニャーナン;
(11)ジヴァーヴィンニャーナン;
(12)スカサハガタン カーヤヴィンニャーナン;
(13)ウペッカーサハガタン サンパティッチャナチッタン;
(14)ソーマナッササハガタン サンティーラナチッタン;
(15)ウペッカーサハガタン サンティーラナチッタン: チャー ティ 
イマーニ サッタ ピ クサラヴィパーカーヘートゥカチッターニナーマ

(8)ウペッカー(苦しくも楽しくもない状態)を伴う、眼のヴィンニャーナ(感覚を感じたという意識)、(9)ウペッカー(苦しくも楽しくもない状態)を伴う、耳のヴィンニャーナ(感覚を感じたという意識)、(10)ウペッカー(苦しくも楽しくもない状態)を伴う、鼻のヴィンニャーナ(感覚を感じたという意識)、(11)ウペッカー(苦しくも楽しくもない状態)を伴う、舌のヴィンニャーナ(感覚を感じたという意識)、(12)スカ(身体の楽しみ)を伴う、身体のヴィンニャーナ(感覚を感じたという意識)、(13)ウペッカー(苦しくも楽しくもない状態)を伴う、対象を受けとめるチッタ、(14)ソーマナッサ(精神的な喜び)を伴う、対象を調べるチッタ、(15)ウペッカー(苦しくも楽しくもない状態)を伴う、対象を調べるチッタ、この八つがクサラヴィパーカ(善業の結果として生じる)チッタです。

第9節へのガイド

クサラヴィパーカチッタ(善業の結果として生じるチッタ):このカテゴリーに入る八種類のチッタはクサラカンマ(善業)の結果です。第8節で説明したアクサラヴィパーカ(不善業の結果として生じる)チッタの場合はアヘートゥカ(チッタを安定させる根を持たない)という言葉が名前に含まれていません。なぜなら、アクサラヴィパーカ(不善業の結果として生じる)チッタはどれもヘートゥ(チッタを安定させる根)を伴わないからです。しかしながら後に示すように、クサラヴィパーカチッタ(善業の結果として生じるチッタ)の場合はヘートゥ(チッタを安定させる根)を伴う場合があります。例えば業の観点からはアクサラ(不善業を作る)でもクサラ(善業を作る)でもない(アビャーカタ)、ソーバナ(道徳的に美しい)ヘートゥ(チッタを安定させる根)を伴うことがあります。ヘートゥ(チッタを安定させる根)を伴わないクサラヴィパーカチッタ(善業の結果として生じるチッタ)とヘートゥ(チッタを安定させる根)を伴うクサラヴィパーカチッタ(善業の結果として生じるチッタ)とを区別するために名前にアヘートゥカ(チッタを安定させる根を持たない)とう言葉が入っています。

八つのクサラヴィパーカ(善業の結果として生じる)チッタのうち七つはアクサラヴィパーカ(不善業の結果として生じる)チッタにも同じ名前のものがあります。しかし、アクサラヴィパーカ(不善業の結果として生じる)チッタは望ましくない対象に関連して生じるのに対し、クサラヴィパーカ(善業の結果として生じるチッタは好ましい(イッタ)ないし極めて好ましい(アティイッタ)対象に関連して生じるという違いがあります。最初の四つはどちらのグループもウペッカー(苦しくも楽しくもない状態)を伴います。しかしクサラヴィパーカカーヤヴィンニャーナン(善業の結果として生じる、身体に感覚を感じたという意識)は身体という感覚器官に対する感覚対象の印象が強いため、スカ(身体の楽しみ)が伴います。

アへートゥカクサラヴィパーカ(チッタを安定させる根を持たず、善業の結果として生じる)チッタ二つのうちの一つであるソーマナッササハガタンサンティーラナチッタ(精神的な楽しさを伴う、対象を調べるチッタ)についてはアヘートゥカ(チッタを安定させる根を持たない)アクサラ(不善業を作る)チッタの中に、それに相当するものはありません。アクサラカンマ(不善業)の結果として生じるサンティーラナチッタ(対象を調べるチッタ)は常にウペッカー(苦しくも楽しくもない状態)を伴いますが、クサラカンマ(善業)の結果として生じるサンティーラナチッタ(対象を調べるチッタ)には2種類あります。そこそこに好ましい対象に関連して生じる場合はサンティーラナチッタ(対象を調べるチッタ)が伴い、とりわけ好ましい対象の場合はソーマナッサ(精神的な楽しさ)を伴います。したがってこのクラスのチッタ、クサラアヘートゥカヴィパーカ(チッタを安定させる根を持たず、善業の結果として生じる)チッタ は合計8種類となります。一方、前節で説明したアクサラヴィパーカ(不善業の結果として生じる)チッタは7種類です。

第10節 アヘートゥカキリヤチッタ(チッタを安定させる根を持たない、機能だけのチッタ):3種類

(16)ウペッカーサハガタン パンチャドゥヴァーラヴァッジャナチッタン;タター(17)マノードゥヴァーラヴァッジャナチッタン;
(18)ソーマナッササハガタン ハスィトゥッパーダチッタン; チャー ティ ピ アヘートゥカキリヤチッタン ナーマ
イッチェーヴァン サッバター ピ アッターラサーへートゥカチッターニ 
マッターニ

(16)ウペッカー(苦しくも楽しくもない状態)を伴い、パンチャドゥヴァーラ(五つの感覚門)にアーヴァッジャナ(注意を向けること)するチッタ;
(17)マノードゥヴァーラ(意門)にアーヴァッジャナ(注意を向けること)するチッタ;
(18)ソーマナッサ(精神的な喜び)を伴う、ハスィトゥッパーダ(微笑を作り出す)チッタ

第10節へのガイド

アヘートゥカキリヤ(チッタを安定させる根を持たない、機能だけの)チッタ:アヘートゥカ(チッタを安定させる根を持たない)チッタに属する残りの三種類のチッタはカンマ(業)の結果ではなく、キリヤ(機能だけの)と呼ばれるカテゴリーに分類されます。この種のチッタはカンマ(業)の原因でも結果でもありません。キリヤ(機能だけの)というカテゴリーに属するチッタの中で、ここで述べる三種類はへートゥ(チッタを安定させる根)を持たず、この後で説明する残りの二種類はへートゥ(チッタを安定させる根)を持ちます。

パンチャドゥヴァーラーヴァッジャナ(五つの感覚門に注意を向ける)チッタ:外部の感覚対象が五つの感覚器官のどれかに衝突すると、その感覚対象に応じた「感じたという意識」が生じます。例えばある形を見たときにはチャックヴィンニャーナ(眼に感覚を感じたという意識)が生じます。しかし「感じたという意識」が生じる前にもう一つのチッタが現れます。それがパンチャドゥヴァーラーヴァッジャナ(五つの感覚門に注意を向ける)チッタです。その働きは、パンチャドゥヴァーラ(五つの感覚門)のどれかに対象が現れた際にそれが何であれ意識をその感覚門に向けることです。このチッタは対象を見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったり、触感を感じたりすることはありません。ただ、対象に意識を向けて、直後に「感じたという意識」が生じるのを可能にするだけです。

マノードゥヴァーラヴァッジャナ(意門に注意を向ける)チッタ:この種のチッタは眼、耳、鼻、舌、身体という五つの感覚門における認識過程、意門での過程どちらにも生じますが、その働きは両者で異なります。五つの感覚門の場合はヴォッタパナ(対象を決定する)チッタ)と呼ばれ、意識によって認識された対象が何であるか決定し、定義するという働きをします。五つの感覚門における認識過程ではヴォッタパナ(対象を決定する)チッタはサンティーラナ(対象を調べる)チッタの後に続きます。サンティーラナ(対象を調べる)チッタが対象を調査した後に、ヴォッタパナ(対象を決定する)チッタがそれを識別します。意門の認識過程、すなわち内部の思考機能を通して生じる認識過程の場合、同じチッタが別の働きをします。意門に現れた対象に注意を向ける働きです。この役割を担う場合はマノードゥヴァーラヴァッジャナ(意門に注意を向ける)チッタという名前で呼ばれます。

ハスィトゥッパーダ(微笑を作り出す)チッタ:このチッタはアラハント(完全なる覚りを得て輪廻からの解脱を果たした者)にしか見られません。ブッダ達もパッチェカブッダ(ブッダと同じ覚りを得ながらそれを誰にも語らずに生涯を終える人)達もアラハントですのでこのチッタが生じます。カーマーヴァチャラ(感覚の喜びを追い求める意識の領域)においてアラハントに微笑をもたらすチッタです。アビダンマによればアラハントが微笑む場合は次の五種類のチッタのうちの一つを伴うとされています。ソーバナカーマーヴァチャラキリヤチッタ(感覚の喜びを追い求める意識の領域での、働きのみの、道徳的に美しいチッタ)四種類とここで説明しているハスィトゥッパーダチッタ(微笑を作り出すチッタ)の五つです。

第11節 アヘートゥカ(チッタを安定させる根を持たない)チッタのまとめ

サッティアークサラパーカー二 プンニャパーカー二 アッタダー 
クリヤーチッターニ ティーニー ティ アッターラサ アヘートゥカー

アクサラヴィパーカ(不善業の結果として生じるもの)が7つ、クサラヴィパーカ(善業の結果として生じるもの)が8つ、クリヤー(機能だけのもの)が3つ、従ってアヘートゥカ(チッタを安定させる根を持たないもの)は18種類になります。

第12節 ソーバナ(道徳的に美しい)チッタ

パーパーへートゥカムッターニ ソーバナーニー ティ ヴッカレー 
エークーナサッティ チッターニ アッテーカナヴティー ピ ヴァー

第12節へのガイド

邪悪なチッタ(不善業の結果として生じるチッタ12種と、チッタを安定させる根を持たないチッタ18種)を除いた残りのチッタがソーバナ(道徳的に美しい)チッタです。59種類ないし91種類あります。

ソーバナ(道徳的に美しい)チッタ:「邪悪なチッタ」つまり、アクサラ(不善業を作る)チッタ12種、およびアヘートゥカ(チッタを安定させる根を持たない)チッタ18種を除いた残りの全てのチッタをソーバナ(道徳的に美しい)チッタと呼んでいます。この種のチッタにソーバナ(道徳的に美しい)とい名前がついているのはソーバナ(道徳的に美しい)チェータスィカを伴うからです。(第2章, 第5~8節参照)

ソーバナ(道徳的に美しい)チッタはクサラ(善業を作る)チッタよりも広い範囲をカバーすることを理解しておく必要があります。ソーバナ(道徳的に美しい)チッタにはクサラチッタ(善業を作るチッタ)全てが含まれますが、それに加えてソーバナ(道徳的に美しい)チェータスィカを伴うヴィパーカチッタ(業の結果として生じるチッタ)とキリヤチッタ(機能だけで業を作らないチッタ)も含みます。このソーバナ(道徳的に美しい)チェータスィカを伴うヴィパーカ(業の結果として生じる)チッタとキリヤ(機能だけの)チッタはクサラ(善業を作る)ではなく、またカンマ(業)の観点からはクサラ(善業を作る)にもアクサラ(不善業を作る)にもあてはまりません(アビャーカタ)。ソーバナ(道徳的に美しい)チッタに含まれるのは(1)この後に詳しく説明する24種類のカーマーヴァチャラ(感覚的な楽しみを追い求める意識の領域における)チッタ、(2)ルーパーヴァチャラ(物質を対象とした禅定に関連する意識の領域における)チッタ、(3)アルーパーヴァチャラチッタ(物質でないものを対象とした禅定に関連する意識の領域における)チッタ)、(4)ロークッタラチッタ(涅槃を悟った聖者たちの意識の領域における)チッタです。ソーバナ(道徳的に美しい)チッタでないものはアソーバナ(道徳的に美しくない)チッタと総称されます。

59ないし91種類あります:ソーバナ(道徳的に美しい)チッタ52種の内容は以下のようになります。カーマーヴァチャラ(感覚的な楽しみを追い求める意識の領域における)が24種類、ルーパーヴァチャラ(物質を対象とした禅定に関連する意識の領域における)が15種類、アルーパーヴァチャラ(物質でないものを対象とした禅定に関連する意識の領域における)に属するものが12種類、ロークッタラ(涅槃を悟った聖者たちの意識の領域における)が8種類です。後で説明するようにロークッタラ(涅槃を悟った聖者たちの意識の領域における)を40種類に分ける場合は全部で91種類となります(第1章、第30節、第31節)。

カーマーヴァチャラソーバナチッタ(感覚の楽しみを追い求める世界における、道徳的に美しいチッタ)24種類

13節 カーマーヴァチャラクサラチッタ(感覚的な楽しみを追い求める意識の領域における、善業を作るチッタ):8種類

1、ソーマナッササハガタン ニャーナサンパユッタン アサンカーリカン エーカン
2、ソーマナッササハガタン ニャーナサンパユッタン ササンカーリカン エーカン
3、ソーマナッササハガタン ニャーナヴィッパユッタン アサンカーリカン 
エーカン
4、ソーマナッササハガタン ニャーナヴィッパユッタン ササンカーリカン 
エーカン
5、ウペッカーサハガタン ニャーナサンパユッタン アサンカーリカン エーカン
6、ウペッカーサハガタン ニャーナサンパユッタン ササンカーリカン エーカン
7、ウペッカーサハガタン ニャーナヴィッパユッタン アサンカーリカン エーカン
8、ウペッカーサハガタン ニャーナヴィッパユッタン ササンカーリカン エーカン

イマーニ アッタ ピ サヘートゥカカーマーヴァチャラクサラチッターニナーマ

1、精神的な楽しみ伴い、洞察の智慧が付随し、駆り立てるものがないチッタ
2、精神的な楽しみ伴い、洞察の智慧が付随し、駆り立てるものがあるチッタ
3、精神的な楽しみ伴い、洞察の智慧が付随せず、駆り立てるものがないチッタ
4、精神的な楽しみ伴い、洞察の智慧が付随せず、駆り立てるものがあるチッタ
5、楽しくも苦しくもない状態を伴い、洞察の智慧が付随し、駆り立てるものがないチッタ
6、楽しくも苦しくもない状態を伴い、洞察の智慧が付随し、駆り立てるものがあるチッタ
7、楽しくも苦しくもない状態を伴い、洞察の智慧が付随せず、駆り立てるものがないチッタ
8、楽しくも苦しくもない状態を伴い、洞察の智慧が付随せず、駆り立てるものがあるチッタ

これがカーマーヴァチャラ(感覚を的な楽しみを追い求める意識の領域おける)サヘートゥカ(チッタを安定させる根を持つ)クサラ(善業を作る)チッタ8種類です。

第13節へのガイド

カーマーヴァチャラクサラチッタ(感覚的な楽しみを追い求める意識の領域における、善業を作るチッタ):このグループには3つの基準に基づいて分類された8種類のチッタが含まれます。基準の一つは同時に生じる感受で、ソーマナッサ(精神的な楽しさ)を伴うものが4種類、ウペッカー(苦しくも楽しくもない状態)を伴うものが4種類です。二番目の基準はニャーナ(洞察の智慧)があるか、ないかです。そして3番目の基準は駆り立てるものがあるか、ないかです(表4参照)。

ニャーナサンパユッタ(智慧が付随する):ニャーナ(洞察の智慧)があれば物事をありのままに見ます(ヤターサバーヴァン)。ニャーナ(洞察の智慧)に関連するチッタの場合、ニャーナはパンニャーチェータスィカ(智慧のチェータスィカ)のことを意味します。このパンニャーチェータスィカ(智慧のチェータスィカ)はアモーハ(正しい生き方を目指し、真理がわからず混乱した状態から離れること)というヘートゥ(チッタを安定させる根)でもあります。ニャーナヴィッパユッタ(洞察の智慧が付随しない)チッタはこのパンニャーチェータスィカ(智慧のチェータスィカ)を欠きますが、アヴィッジャー(聖なる真理に対する無知)やモーハ(真理がわからず混乱した状態)を含むことはありません。この二つはアクサラチッタ(不善業を作るチッタ)にのみ関連します。

アサンカーリカ(駆り立てるものがない):注釈書によれば、美味しい食事や快適な天候など身体や心に適した環境に置かれると人は他から駆り立てられなくとも自発的に善い行いとするとされています。また過去に同じような行為を行った結果として自発的に善い行いをするとも言われています。サンカーラ(駆り立てること)は他人の説得や自分自身の思考により生じます(36ページ参照)。

サヘートゥカ(チッタを安定させる根を持つ):ニャーナ(洞察の智慧)が関連する四つのクサラ(善業を作る)チッタは、アローバ(正しい生き方を目指して欲から離れる)、アドーサ(正しい生き方を目指して怒りから離れる)、アモーハ(正しい生き方を目指して真理がわからず混乱した状態から離れる)という三つのクサラ(善業を作る)ヘートゥ(チッタを安定させる根)を持ちます。ニャーナ(洞察の智慧)に関連しないチッタはアドーサ(正しい生き方を目指して欲から離れる)ないし寛大、そしてアローバ(正しい生き方を目指して怒りから離れること)ないし慈しみ、の二つを持ちますが、アモーハ(正しい生き方を目指し、智慧がないため真理がわからず混乱した状態から離れる)はありません。

8種類のチッタを、具体例をあげて分かりやすく説明すると以下のようになるかと思います。

1、誰かが楽しみながら、他から駆り立てられることなく自然に善い行いをする。それが善行為であることを理解している。
2、誰かが楽しみながら、他から駆り立てられて、あるいは自分でよく考えてから善い行いをする。それが善行為であることを理解している。
3、誰かが楽しみながら、他から駆り立てられることなく自然に善い行いをする。しかしそれが善行為であることを理解していない。
4、誰かが楽しみながら、他から駆り立てられて、あるいは自分でよく考えてから善い行いをする。しかしそれが善行為であることを理解していない
5、誰かが楽しさも苦しさも感じることなく、他から駆り立てられることなく自然に善い行いをする。それが善行為であることを理解している。
6、誰かが楽しさも苦しさも感じることなく、他から駆り立てられて、あるいは自分でよく考えてから善い行いをする。それが善行為であることを理解している。
7、誰かが楽しさも苦しさも感じることなく、他から駆り立てられることなく自然に善い行いをする。しかしそれが善行為であることを理解していない。
8、誰かが楽しさも苦しさも感じることなく、他から駆り立てられて、あるいは自分でよく考えてから善い行いをする。しかしそれが善行為であることを理解していない。

この八種類のチッタはクサラ(善業を作る)ないしプンニャー(徳のある)です。なぜなら心が汚れるのを防ぎ、善い結果をもたらすからです。これらのチッタはプトゥッジャナ(涅槃を悟っていない普通の人々)とセッカー(涅槃を悟り、輪廻からの解脱を目指して修行中の聖者たち)が善い身体の行為・口の行為を行った時、あるいはカーマーヴァチャラ(感覚の楽しみを追い求める意識の領域)に属する善い心を抱いた時にはいつでも生じます。なおセッカーとはソーターパッティ(悟りの第一段階、感覚的楽しみを追い求める世界ヘは最高で7回までしか再生せず、やがて解脱に達する)、サカダーガーミ(悟りの第2段階、感覚的楽しみを追い求める世界ヘは1回しか再生せず、やがて解脱に達する)、アナーガーミ(悟りの第4段階、感覚的楽しみを追い求める世界ヘは再生せず、浄居天と呼ばれる特別な天界に再生しやがて解脱に達する)という涅槃を悟ったブッダの聖なる弟子たちのことです。これらのチッタはアラハント(最終的な覚りを得て解脱を果たした聖者:阿羅漢)には生じません。アラハントの行為にはカンマ(業)を作り出すポテンシャルはありません。

第14節 カーマーヴァチャラヴィパーカチッタ(感覚的な楽しみを追い求める意識の領域における、業の結果として生じるチッタ):8種類

9、ソーマナッササハガタン ニャーナサンパユッタン アサンカーリカン エーカン
10、ソーマナッササハガタン ニャーナサンパユッタン ササンカーリカン 
エーカン
11、ソーマナッササハガタン ニャーナヴィッパユッタン アサンカーリカン 
エーカン
12、ソーマナッササハガタン ニャーナヴィッパユッタン ササンカーリカン 
エーカン
13、ウペッカーサハガタン ニャーナサンパユッタン アサンカーリカン 
エーカン
14、ウペッカーサハガタン ニャーナサンパユッタン ササンカーリカン 
エーカン
15、ウペッカーサハガタン ニャーナヴィッパユッタン アサンカーリカン 
エーカン
16、ウペッカーサハガタン ニャーナヴィッパユッタン ササンカーリカン 
エーカン

イマーニ アッタ ピ サヘートゥカカーマーヴァチャラヴィパーカチッターニ ナーマ

9、精神的な楽しみ伴い、洞察の智慧が付随し、駆り立てるものがないチッタ
10、精神的な楽しみ伴い、洞察の智慧が付随し、駆り立てるものがあるチッタ
11、精神的な楽しみ伴い、洞察の智慧が付随せず、駆り立てるものがないチッタ
12、精神的な楽しみ伴い、洞察の智慧が付随せず、駆り立てるものがあるチッタ
13、楽しくも苦しくもない状態を伴い、洞察の智慧が付随し、駆り立てるものがないチッタ
14、楽しくも苦しくもない状態を伴い、洞察の智慧が付随し、駆り立てるものがあるチッタ
15、楽しくも苦しくもない状態を伴い、洞察の智慧が付随せず、駆り立てるものがないチッタ
16、楽しくも苦しくもない状態を伴い、洞察の智慧が付随せず、駆り立てるものがあるチッタ

これがカーマーヴァチャラ(感覚的な楽しみを追い求める意識の領域おける)サヘートゥカ(チッタを安定させる根を持つ)ヴィパーカ(業の結果として生じる)チッタ8種類です。

第14節へのガイド

サヘートゥカカーマーヴァチャラヴィパーカチッタ(感覚的な楽しみを追い求める意識の領域における、チッタを安定させる根を持つ、業の結果としてのチッタ)

クサラ(善業を作る)に属するチッタが8種類あるのに対応して、8種類のヴィパーカ(業の結果として生じる)チッタがあります。その8つはカーマーヴァチャラ(感覚的な楽しみを追い求める意識の領域)におけるクサラチッタ(善業を作るチッタ)の結果です。クサラカンマ(善業)を原因とするアヘートゥカヴィパーカチッタ(チッタを安定させる根が無い、業の結果としてのチッタ)と区別するため、サヘートゥカ(チッタを安定させる根を持つ)と表現されています。ヘートゥ(チッタを安定させる根)が無いクサラチッタ(善業を作るチッタ)とヘートゥ(チッタを安定させる根)があるヴィパーカチッタ(業の結果として生じるチッタ)はともに同じ8種類のクサラチッタ(善業を作るチッタ)により生じます。しかし2つの組の間には質と機能の点で違いがあります。この違いは後でチッタの機能についてお話しする時(第3章、第11節)に明確に説明したいと思います。

第15節 カーマーヴァチャラキリヤチッタ(感覚的な楽しみを追い求める意識の領域における、働きだけのチッタ):8種類

17、ソーマナッササハガタン ニャーナサンパユッタン アサンカーリカン 
エーカン
18、ソーマナッササハガタン ニャーナサンパユッタン ササンカーリカン 
エーカン
19、ソーマナッササハガタン ニャーナヴィッパユッタン アサンカーリカン
エーカン
20、ソーマナッササハガタン ニャーナヴィッパユッタン ササンカーリカン 
エーカン
21、ウペッカーサハガタン ニャーナサンパユッタン アサンカーリカン 
エーカン
22、ウペッカーサハガタン ニャーナサンパユッタン ササンカーリカン 
エーカン
23、ウペッカーサハガタン ニャーナヴィッパユッタン アサンカーリカン 
エーカン
24、ウペッカーサハガタン ニャーナヴィッパユッタン ササンカーリカン 
エーカン

イマーニ アッタ ピ サヘートゥカカーマーヴァチャラキリヤチッターニ ナーマ

17、精神的な楽しみ伴い、洞察の智慧が付随し、駆り立てるものがないチッタ
18、精神的な楽しみ伴い、洞察の智慧が付随し、駆り立てるものがあるチッタ
19、精神的な楽しみ伴い、洞察の智慧が付随せず、駆り立てるものがないチッタ
20、精神的な楽しみ伴い、洞察の智慧が付随せず、駆り立てるものがあるチッタ
21、楽しくも苦しくもない状態を伴い、洞察の智慧が付随し、駆り立てるものがないチッタ
22、楽しくも苦しくもない状態を伴い、洞察の智慧が付随し、駆り立てるものがあるチッタ
23、楽しくも苦しくもない状態を伴い、洞察の智慧が付随せず、駆り立てるものがないチッタ
24、楽しくも苦しくもない状態を伴い、洞察の智慧が付随せず、駆り立てるものがあるチッタ

これがカーマーヴァチャラ(感覚的な楽しみを追い求める意識の領域における)サヘートゥカ(チッタを安定させる根がある)キリヤ(機能だけの)チッタ8種類です。

このようにヘートゥ(チッタを安定させる根)を持つカーマーヴァチャラ(感覚的な楽しみを追い求める意識の領域)のチッタは24種類あります。

第15節へのガイド

サヘートゥカカーマーヴァチャラキリヤチッタ(チッタを安定させる根を持つ、感覚的な楽しみを追い求める意識の領域における、機能だけのチッタ):8種類のカーマーヴァチャラクサラチッタ(感覚的な楽しみを追い求める意識の領域における、善業を作るチッタ)は涅槃を悟っていない普通の人々や、涅槃を悟り輪廻からの解脱を目指して修行している聖者に生じますが、輪廻転生から解脱したブッダやアラハント(最終的な覚りを得て輪廻から解脱した聖者)には生じません。しかしながら、ブッダやアラハントにはカーマーヴァチャラクサラチッタ(感覚的な楽しみを追い求める意識の領域における、善業を作るチッタ)に相当する8種類のチッタが生じます。クリヤーないしキリヤ(機能だけのチッタ)と呼ばれ、機能を果たすだけでカンマ(業)の痕跡を残すことはありません。ブッダやアラハントには再生の原因となるアヴィッジャー(聖な真理に対する無知)とタンハー(渇愛)が微塵も残っていないため、善い行いをしても将来にその結果をもたらすことは無いからです。キリヤ(機能だけの)チッタはただ現れて、なんらかの役割を果たし、跡を残さずに消え去るだけです。

第16節 カーマーヴァチャラソーバナチッタ(感覚的な楽しみを追い求める意識の領域における、道徳的に美しいチッタ)のまとめ

ヴェーダナーニャーナサンカーラベーデーナ チャトゥヴィーサティ
サヘートゥカーマーヴァチャラプンニャパーカキリヤー マター

へートゥ(チッタを安定させる根)があるカーマーヴァチャラ(感覚的な楽しみを追い求める意識の領域)のチッタには、クサラ(善業を作る)、ヴィパーカ(業の結果として起こる)、キリヤ(機能だけの)が含まれ、ヴェーダナー(感受)、ニャーナ(洞察の智慧)、サンカーラ(駆り立てるもの)の状況によって24種類に分類されます。

第16節へのガイド

へートゥ(チッタを安定させる根)を持つ、カーマーヴァチャラ(感覚的な楽しみを追い求める意識の領域)チッタにはクサラ(善業を作る)、ヴィパーカ(業の結果として起こる)、キリヤ(機能だけの)の三通りのチッタが含まれ、それぞれが以下の三つの基準で8種類に分類されます。(1)ヴェーダナー(感受):ソーマナッサ(精神的な楽しみ)を伴うか、ウペッカー(苦しくも楽しくもない状態)を伴うか、(2)ニャーナ(洞察の智慧)を伴うかどうか、(3)アサンカーリカ(駆り立てるものが無い)かサンカーリカ(駆り立てるものがあるか)か、の三つです。このように全部で24種類のチッタに分類されますが、そのうちニャーナ(洞察の智慧)に関連する12種類のチッタは三つのへートゥ(チッタを安定させる根)を持ち、残りの12種類のチッタは二つのへートゥ(チッタを安定させる根)を持ちます。ここで説明している3つのグループのチッタはマハークサラ(偉大な善)、マハーヴィパーカ(偉大な業の結果)、マハーキリヤ(偉大な機能)という名前で説明されることがよくあります。接頭辞の「マハー」は「偉大な」という意味ですが、その詳細は指導者により説明が異なります。

第17節 カーマーヴァチャラチッタ(感覚的な楽しみを追い求める意識の領域のチッタ)のまとめ

カーメー テーヴィサパーカーニ プンニャー プンニャー二 ヴィサティー
エーカーダサ クリヤー チャー ティ チャトゥー パンニャーサ サッバター

カーマーヴァチャラ(感覚的な楽しみを追い求める意識の領域)ではヴィパーカ(業の結果として生じる)チッタが23種類、アクサラ(不善業を作る)チッタとクサラ(善業を作る)チッタが20種類、キリヤ(機能だけの)チッタが11種類、合計54個のチッタがあります。

第17節へのガイド

カーマーヴァチャラ(感覚的な楽しさを追い求める意識の領域)で経験するチッタは全部で54種類あります。そして以下のように分類されます。

種類による分類

マハークサラ(偉大なる、善業を作る) 8種類
アクサラ(不善業を作る) 12種類
ヴィパーカ(業の結果として生じる) 23種類
アクサラヴィパーカ(不善業の結果として生じる) 7種類
アヘートゥカクサラヴィパーカ(チッタを安定させる根を持たず、善業の結果として生じる)8種類
マハークサラヴィパーカ(偉大なる、善業の結果として生じる) 8種類
キリヤ(機能だけの) 11種類
アヘートゥカキリヤ(チッタを安定させる根を持たず、機能だけの) 3種類
マハーキリヤ(偉大なる、機能だけの) 8種類

ヴェーダナー(感受)による分類

ソーマナッサ(精神的な楽しさ)を伴うもの 18種類
ウペッカー(苦しくも楽しくも無い状態)を伴うもの32種類
ドーマナッサ(精神的な苦しみ)を伴うもの 2種類
スカ(身体の楽しさ)を伴うもの 1種類
ドゥッカ(身体の苦しみ)を伴うもの 1種類

ニャーナ(洞察の智慧)とディッテイ(真理にそぐわない誤った見解)が付随するかどうかによる分類

付随するもの 16種類
付随しないもの 16種類
どちらでもないもの 22種類

サンカーラ(駆り立てるもの)の有無による分類

サンカーラがないもの 17種類
サンカーラがあるもの 17種類
どちらでもないもの 20種類

伝統的な僧院では生徒にアビダンマを教える際にこのチッタのリストを繰り返し良く考えるだけでなく、暗記するように強く促しています。チッタとともに生じるチェータスィカを学ぶ際に極めて大事なことだからです。チェータスィカについては次の章で詳しく説明します。

第18節 ルーパーヴァチャラクサラチッタ(物質を対象とした禅定に関係する意識の領域のにおける、善業を作るチッタ):5種類

1、ヴィタッカ ヴィチャーラ ピーティ スカ エーカッガター サヒタン 
パタマッジャーナクサラチッタン
2、ヴィタッカ ピーティ スカ エーカッガター サヒタン 
ドゥティヤッジャーナクサラチッタン
3、ピーティ スカ エーカッガター サヒタン タティヤッジャーナクサラチッタン
4、スカ エーカッガター サヒタン チャトゥッタッジャーナクサラチッタン
5、ウペッカー エーカッガター サヒタン パンチャマッジャーナクサラチッタン 
チャ―ティ
イマーニ パンチャ ピ ルーパーヴァチャラクサラチッターニ ナーマ

1、ヴィタッカ(認識対象に注意を向かわせる要素)、ヴィチャーラ(認識対象に向かった注意を持続させる要素)、ピーティ(喜び)、スカ(精神的な安楽)、エーカッガター(一つの対象に対する集中が途切れなく持続した状態)がそろった禅定の第1段階のクサラ(善業を作る)チッタ。
2、ヴィタッカ(認識対象に注意を向かわせる要素)が不要となり、ヴィチャーラ(認識対象に向かった注意を持続させる要素)、ピーティ(喜び)、スカ(精神的な安楽)、エーカッガター(一つの対象に対する集中が途切れなく持続した状態)の四つとなった禅定の第2段階のクサラ(善業を作る)チッタ。
3、さらにヴィチャーラ(禅定を目指して認識対象に向かった注意を持続させる要素)も不要となり、ピーティ(喜び)、スカ(精神的な安楽)、エーカッガター(一つの対象に対する集中が途切れなく持続した状態)の三つとなった禅定の第3段階のクサラ(善業を作る)チッタ。
4、さらにピーティ(喜び)が抜けて、スカ(精神的な安楽)、エーカッガター(一つの対象に対する集中が途切れなく持続した状態)の二つとなった禅定の第4段階のクサラ(善業を作る)チッタ。
5、さらにスカ(安楽)、が抜けて、ウペッカー(心が静まり苦も楽も感じなくなった状態)が出現しエーカッガター(一つの対象に対する集中が途切れなく持続した状態)とともに二つだけが残った禅定の第5段階のクサラ(善業を作る)チッタ。

第19節:ルーパーヴァチャラヴィパーカチッタ(物質を対象とした禅定に関係する意識の領域における、業の結果として生じるチッタ):5種類

1、ヴィタッカ ヴィチャーラ ピーティ スカ エーカッガター サヒタン 
パタマッジャーナヴィパーカチッタン
2、ヴィタッカ ピーティ スカ エーカッガター サヒタン 
ドゥティヤッジャーナヴィパーカチッタン
3、ピーティ スカ エーカッガター サヒタン 
タティヤッジャーナヴィパーカチッタン
4、スカ エーカッガター サヒタン チャトゥッタッジャーナヴィパーカチッタン
5、ウペッカー エーカッガター サヒタン パンチャマッジャーナヴィパーカチッタン チャーティ
イマーニ パンチャ ピ ルーパーヴァチャラヴィパーカチッターニ ナーマ

1、ヴィタッカ(対象に注意を向かわせる要素)、ヴィチャーラ(認識対象に向かった注意を持続させる要素)、ピーティ(喜び)、スカ(精神的な安楽)、エーカッガター(一つの対象に対する集中が途切れなく持続した状態)がそろった禅定の第1段階のヴィパーカ(業の結果として生じる)チッタ。
2、ヴィタッカ(対象に注意を向かわせる要素)が不要となり、ヴィチャーラ(認識対象に向かった注意を持続させる要素)、ピーティ(喜び)、スカ(精神的な安楽)、エーカッガター(一つの対象に対する集中が途切れなく持続した状態)の四つとなった禅定の第2段階のヴィパーカ(業の結果として生じる)チッタ。
3、さらにヴィチャーラ(認識対象に向かった注意を持続させる要素)も不要となり、ピーティ(喜び)、スカ(精神的な安楽)、エーカッガター(一つの対象に対する集中が途切れなく持続した状態)の三つとなった禅定の第3段階のヴィパーカ(業の結果として生じる)チッタ。
4、さらにピーティ(喜び)が抜けて、スカ(精神的な安楽)、エーカッガター(一つの対象に対する集中が途切れなく持続した状態)の二つとなった禅定の第4段階のヴィパーカ(業の結果として生じる)チッタ。
5、さらにスカ(精神的な安楽)が抜けて、ウペッカー(心が静まり楽も苦も感じなくなった状態)が出現しエーカッガター(一つの対象に対する集中が途切れなく持続した状態)とともに二つだけが残った禅定の第5段階のヴィパーカ(業の結果として生じる)チッタ。

第20節 ルーパーヴァチャラクリヤーチッタ(物質を対象とした禅定に関係する意識の領域における、機能だけのチッタ):5種類

1、ヴィタッカ ヴィチャーラ ピーティ スカ エーカッガター サヒタン 
パタマッジャーナクリヤーチッタン
2、ヴィタッカ ピーティ スカ エーカッガター サヒタン 
ドゥティヤッジャーナクリヤーチッタン
3、ピーティ スカ エーカッガター サヒタン タティヤッジャーナクリヤーチッタン
4、スカ エーカッガター サヒタン チャトゥッタッジャーナクリヤーチッタン
5、ウペッカー エーカッガター サヒタン パンチャマッジャーナクリヤーチッタン チャーティ
イマーニ パンチャ ピ ルーパーヴァチャラクリヤーチッターニ ナーマ

1、ヴィタッカ(認識対象に注意を向かわせる要素)、ヴィチャーラ(認識対象に向かった注意を持続させる要素)、ピーティ(喜び)、スカ(精神的な安楽)、エーカッガター(一つの対象に対する集中が途切れなく持続した状態)がそろった禅定の第1段階のクリヤー(機能だけの)チッタ。
2、ヴィタッカ(認識対象に注意を向かわせる要素)が不要となり、ヴィチャーラ(認識対象に向かった注意を持続させる要素)、ピーティ(喜び)、スカ(精神的な安楽)、エーカッガター(一つの対象に対する集中が途切れなく持続した状態)の四つとなった禅定の第2段階のクリヤー(機能だけの)チッタ。
3、さらにヴィチャーラ(認識対象に向かった注意を持続させる要素)も不要となり、ピーティ(喜び)、スカ(精神的な安楽)、エーカッガター(一つの対象に対する集中が途切れなく持続した状態)の三つとなった禅定の第3段階のクリヤー(機能だけの)チッタ。
4、さらにピーティ(喜び)が抜けて、スカ(精神的な安楽)、エーカッガター(一つの対象に対する集中が途切れなく持続した状態)の二つとなった禅定の第4段階のクリヤー(機能だけの)チッタ。
5、さらにスカ(精神的な安楽)が抜けて、ウペッカー(心が静まり楽も苦も感じなくなった状態)が出現しエーカッガター(一つの対象に対する集中が途切れなく持続した状態)とともに二つだけが残った禅定の第5段階のクリヤー(機能だけの)チッタ。

第18~20節へのガイド

ルーパーヴァチャラ(物質を対象とした禅定に関連する意識の領域における)チッタ:この意識の領域は、ルーパブーミ(物質を対象とした禅定に関連する生存領域)で活動するないし、ないしそれに関連したチッタを全て含みます。ルーパブーミ(物質を対象とした禅定に関連する生存領域)には粗大な物質は無く、わずかな痕跡としての物質しかありません。ジャーナ(禅定)という瞑想状態、すなわちサマーディ(集中)が高まった状態を得るとこのルーパブーミに再生することが可能になります。ルーパブーミ(物質を対象とした禅定に関連する生存領域)で頻繁に生じる意識の状態は、それが質的にルーパブーミ(物質を対象とした禅定に関連する生存領域)に関連するという点で、ルーパーヴァチャラ(物質を対象とした禅定に関連する意識の領域における)チッタと呼ばれます。

15種類のチッタがこのカテゴリーに該当します。クサラ(善業を作る)チッタ5種類、ヴィパーカ(業の結果として生じる)チッタ5種類、クリヤー(機能だけの)チッタ5種類です(表1.5)。ルーパーヴァチャラクサラ(物質を対象とした禅定に関連する意識の領域における、善業を作る)チッタは涅槃を悟っていない普通の人々とセッカーと呼ばれる涅槃を悟り輪廻からの解脱を目指す聖者が経験します。ルーパーヴァチャラクサラ(物質を対象とした禅定に関連する意識の領域における、善業を作る)チッタの結果(ヴィパーカ)が現れるのは、ジャーナ(禅定)を育てて、ルーパブーミ(物質を対象とした禅定に関連する生存領域)に再生した者だけです。ジャーナクリヤー(禅定に伴う機能だけの)チッタは禅定に入ったアラハント(最終的な覚りを得て輪廻からの解脱を果たした聖者)にしか生じません。

注釈書の著者たちはパーリ聖典のジャーナ(禅定)という言葉は、「熟慮する」ないし「焼き尽くす」という意味の語幹に由来するとしています。したがって、ジャーナ(禅定)は対象について一心に熟慮する、そして集中の対極にある散乱状態を焼き尽くすという意味でジャーナ(禅定)と名付けられています。散乱状態とは集中を妨げる五つの障害(ニーヴァラナ)である、カーマッチャンダ(官能的な欲望)、ヴャーパーダ(悪意)、ティーナミッダ(怠惰と無気力)、ウッダッチャクックッチャ(不穏・錯乱と後悔)、ヴィチキッチャー(ブッダ・ダンマ・サンガとその教えに対する疑い)のことです。

ジャーナ(禅定)はサマタバーヴァナー(集中により散乱がおさまった静かな心を培う実践)と呼ばれる瞑想法によって得ることが出来ます。この種の瞑想にはサマーディ(集中)という能力の強化が含まれます。一つの対象を選んでそれに集中することで、心の散乱を取り除くことが出来ます。ニーヴァラナ(集中のを妨げる五つの障害)は抑制され、心はその対象に完全に没入します。心の落ち着きを培う方法については後で詳しく説明します(第11章、第2節~第20節参照)。

ジャーナ(禅定の)チッタの対象はパティバーガニミッタと呼ばれる、心に浮かんだイメージです。このイメージは概念(パンニャティ)ですが、多くの場合目に見える形として現れます。そのためこのチッタはルーパーヴァチャラ(物質を対象にした禅定に関連する意識の領域)に属します。ジャーナ(禅定)を目指す瞑想者は、集中の対象としてカスィナと呼ばれる瞑想用の道具を用いることも出来ます。カスィナは色のついた円盤でそれに注意を固定させます。カスィナは物体ですが集中が高まるとウッガハニミッタと呼ばれるカスィナの複製イメージが生じます。そして今度はそれがもとになってジャーナ(禅定)の対象と考えられているパティバーガニミッタが生じます。

ルーパーヴァチャラクサラ(物質を対象にした禅定に関連する意識の領域における、善業を作る)チッタ:このカテゴリーにはジャーナ(禅定)の五つの段階に応じた5種類のチッタが含まれます。それぞれのジャーナ(禅定)が異なるチッタにより構成されます。ジャーナ(禅定)を数える時の順番には二つの根拠があります。(1)ジャーナ(禅定)を目指す瞑想者はこの順番で段階的にジャーナ(禅定)を獲得する、(2)ブッダがこの順番で説明された、の二つです。

ジャーナ(禅定)の第一段階のクサラ(善業を作る)チッタ:それぞれのジャーナ(禅定)はジャーナンガ(禅定の構成要素)と呼ばれる五つの要素の組み合わせにより定義されています。それぞれのジャーナ(禅定の)チッタを構成する様々な精神的要素の中で、ジャーナ(禅定)を特徴づけるのはジャーナンガ(禅定の構成要素)であり、それが対象に対する没入をもたらします。本文にあるように第一段階のジャーナ(禅定)を得るためには五つのジャーナンガ(禅定の構成要素)がバランスよくそろっている必要があります。対象に深く集中し、ニーヴァラナ(集中を妨げる五つの障害)を焼き尽くします。

ヴィタッカ(対象に注意を向かわせる要素):経典ではヴィタッカは広い意味での思考としてよく使われます。しかしアビダンマでは瞑想技法に関わる要素の一つとして厳密に定義されています。その意味は注意を対象に向かわせることです。王の臣下の一人が村人を宮殿に案内するように、ヴィタッカは心を対象に向けかわせます。ジャーナ(禅定)を得るための修行においては、ヴィタッカはニーヴァラナ(集中を妨げる五つの障害)の一つであるティーナミッダ(怠惰と無気力)を抑えるという特別な役目を担います。

ヴィチャーラ(認識対象に向かった注意を持続させる要素):ヴィチャーラは通常「調べること」という意味をもっていますが、アビダンマでは対象に向かった注意をそのまま持続させるという意味で使われます。ヴィタッカは心と心に付随する要素を対象に向けさせる一方、ヴィチャーラは対象に対する心の働きかけを持続させます。注釈書では以下のような例えをあげて、わかりやすく説明しています。鳥が羽を広げるのがヴィタッカで、羽を広げたまま滑空するのがヴィチャーラです。蜂が花に向かって飛んでいくのがヴィタッカで花の近くを飛び回るのがヴィチャーラです。錆びた金属の皿を手に持つのがヴィタッカで、皿を磨くのがヴィチャーラです。ジャーナ(禅定)におけるヴィチャーラはヴィチキッチャー(ブッダの修行法に対する疑い)を一時的に抑制する役目をにないます。

ピーティ(喜び):ピーティは「さわやかな気分になる」という意味のピーナヤティという動詞に由来します。対象に集中することで生じる喜び、対象に喜んで関心を持つことなどと訳すことができるかと思います。ピーティは「歓喜」と訳されることがよくあります。ジャーナ(禅定)の要素としては適切かもしれませんが、ピーティ(喜び)のニュアンスを完璧には伝えていません。注釈書の著者たちはピーティ(喜び)を五つに分けて説明しています。(1)小さな喜び、(2)瞬間的な喜び、(3)シャワーのような喜び、(4)身体が浮くような喜び、(5)全身に浸透する喜び、です。小さな喜びでは全身の鳥肌が立ちます。瞬間的な喜びは稲光のような喜びです。シャワーのような喜びは海岸に打ち寄せる波のように何度も全身に喜びが押し寄せます。身体が浮くような喜びでは文字通り身体が宙に浮くかのような喜びです。全身に浸透する喜びでは、洪水が洞窟に満ち溢れるように、喜びが全身を満たします。ジャーナ(禅定)の際に現れるピーティー(喜び)は最後の全身に浸透する喜びとして見出されます。ジャーナ(禅定)の要素としてのピーティ(喜び)はヴャーパーダ(悪意)というニーヴァラナ(集中の障害となる要因)を抑制します。

スカ(精神的な安楽):スカというジャーナ(禅定)の構成要素は安楽という精神的な感受です。ソーマナッサ(精神的な楽しみ)と同一です。そしてクサラヴィパーカカーヤヴィンニャーナ(善業の結果として生じる、身体に感覚を感じたという意識)に伴うスカ(身体の安楽)とは異なります。ここで説明しているジャーナ(禅定)の要素としてのスカ(精神的な安楽)は至福とも訳され、官能的楽しみから離れることで生じます。このためニラーミサスカ(俗世間を超えた宗教的な喜び)と表現されることもあります。そしてウッダッチャクックッチャ(不穏・興奮と後悔)というニーヴァラナ(集中の妨げとなる要因)に対抗します。

ピーティ(喜び)とスカ(精神的な安楽)は互いに密接に関連していますが、ピーティ(喜び)は意欲に関連し、パンチャカンダ(生命を構成する五つの塊)のうち、サンカーラカンダ(意思による形成作用という塊)に属します。一方、スカ(精神的な安楽)はヴェーダナーカンダ(感受という塊)に属します。ピーティ(喜び)は疲れ切った旅人がオアシスにたどり着いた時に経験する喜びに、スカ(精神的な安楽)はその旅人が水浴びし、水を飲んでいる時に感じる安楽に例えられています。

エーカッガター(一つの対象に対する集中が途切れなく持続した状態):パーリ聖典におけるこの言葉の文字通りの意味はエー(一つに)、アッガ(狙いを定めた)ター(状態)となります。このジャーナ(禅定)の要素は、五段階あるジャーナ(禅定)全てに共通する根本的な要素であり、サマーディ(心が静まり安定した状態)の要です。エーカッガター(一つの対象に対する集中が途切れなく持続した状態)は一時的に官能的な欲望を抑えますが、それはどのような瞑想においても必要となる条件の一つです。エーカッガター(一つの対象に対する集中が途切れなく持続した状態)はジャーナ(禅定)の際立った特徴である、対象について念入りに熟慮するという機能を果たします。ただしエーカッガター(一つの対象に対する集中が途切れなく持続した状態)単独で機能することはできず、他の四つのジャーナ(禅定)の要素がそれぞれ特有の機能を果たし、共同作業を行うことが必要です。ヴィタッカ(対象に注意を向かわせる要素)が関連する状態を対象に向け、ヴィチャーラ(認識対象に向いた注意を持続させる要素)によりそれが持続し、ピーティ(喜び)が対象に対する喜びをもたらし、スカ(精神的な安楽)がジャーナ(禅定)における安楽を経験します。

ジャーナ(禅定)の第2段階におけるクサラチッタ(善業を作るチッタ):集中を高めることにより、比較的粗大なジャーナ(禅定)の要素を段階的にそぎ落として、より微妙なジャーナ(禅定)の要素を洗練させることで、高いレベルのジャーナ(禅定)を得ることが出来ます。経典の中ではブッダは、ジャーナ(禅定)は四段階であると説明されています。ヴィタッカ(認識対象に注意を向かわせる要素)とヴィチャーラ(認識対象に向かった注意を持続させる要素)を同時にそぎ落とすことでジャーナ(禅定)の第一段階から第二段階へと進むとしています。アビダンマではその中間に、ヴィタッカのみが無くなってヴィチャーラのみが残る段階があり、それがジャーナ(禅定)の第2段階にあたり、ジャーナ(禅定)は全部で5段階あるとしています。

ジャーナ(禅定)の第3段階では、ヴィチャーラ(認識対象に向かった注意を持続させる要素)も無くなります。第4段階のジャーナではピーティ(喜び)も消え去ります。そして第5段階のジャーナ(禅定)ではウペッカー(心が静まり苦も楽も感じなくなった状態)がスカ(精神的な安楽)にとって代わります。このように、最初の四つの段階のジャーナ(禅定)にはスカ(精神的な安楽)が伴い(ソーマナッササヒタ)、第5段階のジャーナ(禅定)にはウペッカー(心が静まり楽も苦も感じなくなった状態)が伴います(ウペッカーサヒタ)。

経典に記された方法に従うとジャーナ(禅定)は全部で4段階となり、そのうちの第一番目は全ての点においてアビダンマの第一段階のジャーナ(禅定)と同一です。しかし経典における第二段階のジャーナではヴィタッカ(認識対象に注意を向かわせる要素)とヴィチャーラ(認識対象に向かった注意を持続させる要素)の両方が消褪し、ピーティ(喜び)、スカ(精神的な安楽)、エーカッガター(一つの対象に対する集中が途切れなく持続した状態)の三つだけが残ります。これはアビダンマの第3段階のジャーナ(禅定)と同じです。経典における第3段階のジャーナ(禅定)にはスカ(精神的な安楽)、エーカッガター(一つの対象に対する集中が途切れなく持続した状態)の二つのみが含まれます。第4段階ではウペッカー(心が静まり楽も苦も感じなくなった状態)とエーカッガター(一つの対象に対する集中が途切れなく持続した状態)の二つのみが含まれます。これらはそれぞれがアビダンマにおける第4段階、第5段階のジャーナ(禅定)に相当します。

経典ではジャーナ(禅定)の五段階の区分について明言していませんが、その土台となる区分をほのめかす記述があります。その中でブッダは3種類の集中、(1)ヴィタッカ(認識対象に注意を向かわせる要素)、ヴィチャーラ(認識対象に向かった注意を持続させる要素)の両方を含む集中、(2)ヴィタッカ(認識対象に注意を向かわせる要素)が無く、ヴィチャーラ(認識対象に向かった注意を持続させる要素)だけを含む集中、(3)ヴィタッカ(認識対象に注意を向かわせる要素)もヴィチャーラ(認識対象に向かった注意を持続させる要素)も無い集中、の3つです(サヴィタッカ サヴィチャーラ サマーディ、
アヴィタッカ ヴィチャーラマッタ サマーディ、 アヴィタッカ アヴィチャーラ 
サマーディ M.128 iii, 162)。一番目が経典、アビダンマ双方の第一段階のジャーナ(禅定)に相当することは明らかです。そして3番目は経典の第2段階~第4段階のジャーナ(禅定)、アビダンマの第3段階~第5段階の禅定に相当します。2番目は経典そのものには明らかな記述は無く、アビダンマの第2段階のジャーナ(禅定)として理解することが出来ます。

第21節 ルーパーヴァチャラ(物質を対象とした禅定に関連する意識の領域における)チッタのまとめ

パンチャダー ジャーナベーデーナ ルーパーヴァチャラマーナサン 
プンニャパーカリヤーベーダ― タン パンチャダサダー バヴェー
ルーパーヴァチャラチッタ(物質を対象とした禅定に関連する意識の領域のチッタ)はジャーナ(禅定)で分けると5種類になります。クサラ(善業を作る)、ヴィパーカ(業の結果として生じる)、クリヤー(機能だけの)でさらに細分すると15種類になります。

21節へのガイド

5段階のジャーナ(禅定)がそれぞれクサラ(善業を作る)、ヴィパーカ(業の結果として生じる)、クリヤー(機能だけの)として現れるので全部で15種類となります。同じ段階のジャーナ(禅定の)チッタはクサラ(善業を作る)、ヴィパーカ(業の結果として生じる)、クリヤー(機能だけの)の区分に関係なく同じ組み合わせのジャーナ(禅定)の要素から構成されます。ニャーナ(洞察の智慧)はジャーナ(禅定)の構成要素にはなっておらず、その組み合わせの中に入っていませんが、ルーパーヴァチャラ(物質を対象とした禅定に関連する意識の領域の)チッタは全てニャーナ(洞察の智慧)が付随します(ニャーナサンパユッタ)。従って、全てのルーパーヴァチャラ(物質を対象とした禅定に関連する意識の領域の)チッタは三つのヘートゥ(チッタを安定させる根)、すなわちアローバ(正しい生き方を目指して欲から離れること)、アドーサ(正しい生き方を目指して怒りから離れること)、アモーハ(正しい生き方を目指し、智慧がないため真理が分からず混乱した状態から離れること)を全て持ち合わせています。

カーマーヴァチャラ(感覚的な楽しみを追い求める意識の領域)のクサラチッタ(善業を作るチッタ)、アクサラチッタ(不善業を作るチッタ)に見られる、ササンカーリカ(駆り立てるものがある)か、アサンカーリカ(駆り立てるものがない)かという区分はルーパーヴァチャラチッタ(物質を対象とした禅定に関連する意識の領域におけるチッタ)には無いことに注意してください。アルーパーヴァチャラチッタ(物質でない対象を使って得られた禅定に関する意識の領域におけるチッタ)とロークッタラチッタ(涅槃を悟った聖者の意識の領域におけるチッタ)の場合もやはり省略されています。その理由としては、ジャーナ(禅定)、悟りの道果を得ようと瞑想実践している時には、他者から促されたり自分自身で気持ちを駆り立てたりといったことに依存している限り、目指すジャーナ(禅定)ないし道果を得るのにふさわしい状態にはまだなっていないからです。ササンカーリカ(駆り立てるものがある)か、アサンカーリカ(駆り立てるものがない)かという区分は、瞑想実践の初期段階のチッタにはふさわしいと言えますが、実際にジャーナ(禅定)ないし道果を得る時点でのチッタにサンカーラ(駆り立てるもの)が含まれる可能性はありません。このように、駆り立てられてジャーナ(禅定)や聖者の道果を得る可能性は現実にはありませんので、ササンカーリカ(駆り立てるものがある)か、アサンカーリカ(駆り立てるものがない)かという区分をこうしたチッタに当てはめるのは理屈に合いません。

ここで述べている見解は、一般に受け入れられている、ヴィバ―ヴィニーティーカーという注釈書の意見とは異なります。それによれば、ジャーナ(禅定)を獲得するためには常に事前の努力(プッバービサンカーラ)が必要なので、ジャーナ(禅定)のチッタは常にササンカーリカ(駆り立てるものがある)であり、アサンカーリカ(駆り立てるものがない)とはならないとされています。しかし、ジャーナ(禅定)、道果を目指した事前の努力をササンカーリカ(駆り立てるものがある)と同一視し、ジャーナ(禅定の)チッタそのものに付随すると考えるのは不条理です。ですから、権威あるヴィバ―ヴィニーに書かれていても、やはりササンカーリカ(駆り立てるものがある)、アサンカーリカ(駆り立てるものがない)という区分は高いレベルのチッタには不適切であると思われます。

それにもかかわらず、レディセヤドーはササンカーリカ(駆り立てるものがある)、アサンカーリカ(駆り立てるものがない)の区分をジャーナ(禅定)やロークッタラ(涅槃を悟った聖者の意識の領域)に当てはめることが出来るという立場をとっています。その理由は、複数の教科書に書かれているジャーナ(禅定)や道果を得る修行過程の区分です。ダンマサンガーニーという注釈書にはドゥッカパティパダー(困難な道)、スカパティパダー(楽な道)という二つの修行実践の道が書かれています。ドゥッカパティパダー(困難な道)を歩む修行者は、大変な努力を重ねてサマタ瞑想(一つの瞑想対象に集中する瞑想)を実践し、ジャーナ(禅定)を極めた後に、ヴィパッサナー瞑想(現象の生滅を観察する瞑想)を実践しニッバーナ(涅槃)を悟ります。一方でスカパティパダー(楽な道)を歩む修行者は、サマタ瞑想(一つの瞑想対象に集中する瞑想)は必要十分な程度にとどめて、早い段階からヴィパッサナー瞑想(現象の生滅を観察する瞑想)を実践しニッバーナ(涅槃)を悟ります。レディセヤドーによれば、ドゥッカパティパダー(困難な道)により獲得したジャーナ(禅定)チッタやロークッタラ(涅槃を悟った聖者の意識の領域)チッタはカーマーヴァチャラ(感覚的な楽しみを追い求める意識の領域)レベルのササンカーリカ(駆り立てるものがある)チッタに対応し、スカパティパダー(楽な道)により達成したジャーナ(禅定)チッタやロークッタラ(涅槃を悟った聖者の意識の領域)チッタがアサンカーリカ(駆り立てるものがない)チッタに対応するとされています。

レディセヤドーの見解は注目に値しますが、次のような事実はそのまま残ります。(1)ダンマサンガニーという注釈書はもともとジャーナ(禅定)チッタやロークッタラ(涅槃を悟った聖者の意識の領域)チッタを修行の過程を考慮して分類することはしていません。(2)修行の過程について説明している部分においても、それを基にジャーナ(禅定)チッタやロークッタラ(涅槃を悟った聖者の意識の領域)チッタを区分することはしていません。従って、ジャーナ(禅定)チッタもロークッタラ(涅槃を悟った聖者の意識の領域)チッタもササンカーリカ(駆り立てるものがある)、アサンカーリカ(駆り立てるものがない)という区分を用いない方が好ましいと思われます。

アルーパーヴァチャラチッタ(物質でないものを対象にして得られる禅定に関連した意識の領域におけるチッタ):12種類

第22節 アルーパーヴァチャラクサラチッタ(物質でないものを対象にして得られる禅定に関連した意識の領域における、善業を作るチッタ):4種類

1、アーカーサンチャヤタナ クサラチッタン
2、ヴィンニャーナンチャヤタナ クサラチッタン
3、アキンチャナーヤタナ クサラチッタン
4、ネーヴァサンニャーナーサンニャーヤタナ クサラチッタン チャー ティ
イマーニ チャッターリ ピ アルーパヴァチャラ クサラチッターニ ナーマ

1、空間の無限性を基に、それを対象にして得られた禅定に関連する善業を作るチッタ
2、意識の無限性を基に、それを対象にして得られた禅定に関連する善業を作るチッタ
3、虚無を基に、それを対象にして得られた禅定に関連する善業を作るチッタ
4、認知があるのでも認知が無いのでもない状態を基に、それを対象にして得られた禅定に関連する善業を作るチッタ

この四つがアルーパーヴァチャラクサラチッタ(物質でないものを対象にして得られる禅定に関連した意識の領域における、善業を作るチッタ)です。

第23節 アルーパーヴァチャラヴィパーカチッタ(物質でないものを対象にして得られる禅定に関連した意識の領域における、業の結果として生じるチッタ):4種類

1、アーカーサンチャヤタナ ヴィパーカチッタン
2、ヴィンニャーナンチャヤタナ ヴィパーカチッタン
3、アキンチャナーヤタナ ヴィパーカチッタン
4、ネーヴァサンニャーナーサンニャーヤタナ ヴィパーカチッタン チャー ティ
イマーニ チャッターリ ピ アルーパヴァチャラ ヴィパーカチッターニ ナーマ

5、空間の無限性を基に、それを対象にして得られた禅定に関連する、業の結果として生じるチッタ
6、意識の無限性を基に、それを対象にして得られた禅定に関連する、業の結果として生じるチッタ
7、虚無を基に、それを対象にして得られた禅定に関連する、業の結果として生じるチッタ
8、認知があるのでも認知が無いのでもない状態を基に、それを対象にして得られた禅定に関連する、業の結果として生じるチッタ
この四つがアルーパーヴァチャラヴィパーカチッタ(物質でないものを対象にして得られる禅定に関連した意識の領域における、業の結果として生じるチッタ)です。

第24節 アルーパーヴァチャラクリヤーチッタ(物質でないものを対象にして得られる禅定に関連した意識の領域における、機能だけのチッタ):4種類

1、アーカーサンチャヤタナ クリヤーチッタン
2、ヴィンニャーナンチャヤタナ クリヤーチッタン
3、アキンチャナーヤタナ クリヤーチッタン
4、ネーヴァサンニャーナーサンニャーヤタナ クリヤーチッタン チャー ティ
イマーニ チャッターリ ピ アルーパヴァチャラ クリヤーチッターニ ナーマ

9、空間の無限性を基に、それを対象にして得られた禅定に関連する、機能だけのチッタ
10、意識の無限性を基に、それを対象にして得られた禅定に関連する、機能だけのチッタ
11、虚無を基に、それを対象にして得られた禅定に関連する、機能だけのチッタ
12、認知があるのでも認知が無いのでもない状態を基に、それを対象にして得られた禅定に関連する、機能だけのチッタ

この四つがアルーパーヴァチャラヴィパーカ(物質でないものを対象にして得られる禅定に関連した意識の領域の、機能だけの)チッタです。

第22~24節へのガイド

アルーパーヴァチャラ(物質でないものを対象にして得られる禅定に関連した意識の領域における)チッタ:このチッタの領域にはアルーパブーミ(物質でないものを対象にして得た禅定に関連する生存領域)と呼ばれる物質のない生存領域のチッタが含まれます。物質を超越したこの生存領域ではチッタとチェータスィカしか残っていません。ルーパーヴァチャラ(物質を対象にして得られた禅定に関連する意識の領域)の五段階のジャーナに含まれる四つの生存領域に再生しますアルーパーヴァチャラ(物質でないものを対象にして得られる禅定に関連した意識の領域)には12種類のチッタがあります。そのうちの四つはクサラチッタ(善業を作るチッタ)で、涅槃を悟っていない普通の人々、そして涅槃を悟り解脱を目指す修行者はこのチッタによりアルーパッジャーナ(物質でないものを対象にして得られた禅定)を経験します。四つのヴィパーカチッタ(業の結果としてのチッタ)はアルーパブーミ(物質でないものを対象にして得た禅定に関連する生存領域)に再生することで生じます。四つのクリヤー(機能だけの)チッタはアルーパッジャーナ(物質でないものを対象にして得られた禅定)に入ったアラハント(最終的な覚りを得て輪廻からの解脱を果たした聖者)が経験します。

アーカーサンチャヤタナ(空間の無限性という基盤):アルーパッジャーナ(物質でないものを対象に得られた禅定)です。このジャーナ(禅定)に達するためには、修行者はカスィナと呼ばれる瞑想対象の色のついた円盤のイメージを無限に広げます。その後カスィナが広がった空間にのみ注意を向けることでカスィナのイメージを取り去り、後に残る「無限の空間」に注意を向けて瞑想します。これを繰り返すことで無限の空間(アーカーサパンニャティ)を対象に没入したチッタが現れます。アーカーサンチャヤタナ(空間の無限性という基盤)という表現は、厳密に言うとアルーパッジャーナチッタ(物質でないものを対象に得られた禅定に関連するチッタ)の対象として用いられる「無限の空間」という概念のことです。ここでは(基盤)という言葉はジャーナチッタ(禅定のチッタ)が宿る場所という意味で使われています。しかしながら広い意味で、アーカーサンチャヤタナ(空間の無限性という基盤)はジャーナ(禅定)そのものを差しています。

ヴィンニャーナンチャヤタナ(意識の無限性という基盤):ここで無限と表現されているヴィンニャーナ(意識)は、アルーパッジャーナ(物質でないものを対象に得られた禅定)の第一段階におけるヴィンニャーナ(意識)のことです。アルーパッジャーナ(物質でないものを対象に得られた禅定)の第一段階の没入状態においては、無限の空間という基盤ないし概念を対象とします。そのためその空間に広がる意識もまた無限であるということをほのめかしています。ですから、このジャーナ(禅定)に達するためには、瞑想者は無限の空間という基盤の意識を対象とし、それを「無限の意識」としてそれに集中することでやがて第二段階のアルーパッジャーナ(物質でないものを対象に得られた禅定)の没入状態が生じます。

アキンチャニャーヤタナー(虚無という基盤):アルーパッジャーナ(物質でないものを対象に得られた禅定)の第三段階は、無限の空間という基盤に関連し、存在しない、何もないという意識の側面を対象とします。アルーパッジャーナ(物質でないものを対象に得られた禅定)の第一段階に関連する意識が無い状態に注意を向けることで「存在しない、何もない」という概念(ナッティバーヴァパンニャティ)を瞑想対象にした第三段階のアルーパッジャーナ(物質でないものを対象に得られた禅定)の没入状態が生じます。

ネーヴァサンニャーナーサンニャーヤタナ(認知がないわけでもあるわけでもない状態という基盤):アルーパッジャーナ(物質でないものを対象に得られた禅定)の最後となる第4段階では認知があるということもできないし、無いということもできないためこのように呼ばれています。この種のチッタではサンニャー(認知)という要素がごく小さくなり、もはや認知というはっきりした機能を果たせなくなっています。したがって認知があるということは出来ません。一方で、認知が完全に無くなったわけではなくその残骸が残っています。したがって認知が無いということも出来ません。ここでは認知についてのみ語っていますが、このチッタを構成する他の要素もまたあまりにも小さくなっており、あるともないとも言えない状態になっています。この第四段階のアルーパッジャーナ(物質でないものを対象に得られた禅定)は第三段階における虚無を基にした意識を瞑想対象にしています。

第25節 アルーパーヴァチャラ(物質でないものを対象に得られた禅定に関連する意識の領域における)チッタについてのまとめ

アーランバナッパベーデーナ チャトゥダールッパマーナサン
プンニャパーカクリヤーベーダ― プナ ドゥワーダサダー ティタン

アルーパーヴァチャラ(物質でないものを対象に得られた禅定に関連する意識の領域における)チッタは瞑想の対象によって分類すれば四つになります。またクサラ(善業を作る)、ヴィパーカ(業の結果として生じる)、クリヤー(機能だけの)により細分すれば全部で12種となります。

第25節へのガイド

瞑想の対象によって分類すれば:それぞれのアルーパーヴァチャラ(物質でないものを対象に得られた禅定に関連する意識の領域における)チッタに関連して理解すべき対象(アーランマナ)は二つあります。一つはチッタによって直接認識される対象(アーランビタッバ)、そしてもう一つは次の段階へ進むために乗り越えるべき対象(アティッカミタッバ)です。両者の関係については表1.6を参照してください。

アルーパッジャーナ(物質でないものを対象に得られた禅定)とルーパッジャーナ(物質を対象にして得られた禅定)はいくつかの大事な点で異なります。ルーパッジャーナ(物質を対象にして得られた禅定)では例えば色の異なるカスィナ(瞑想対象として使われる色のついた円盤)など、瞑想対象は様々です。一方、アルーパッジャーナ(物質でないものを対象に得られた禅定)の場合はそれぞれの段階に特有のたった一つの瞑想対象しかありません。また、ルーパッジャーナ(物質を対象にして得られた禅定)の場合は、それぞれの段階に含まれるジャーナ(禅定)の要素が異なります。第一段階のルーパッジャーナ(物質を対象にして得られた禅定)では5つ、第二段階では4つといった具合です。そしてより高い段階のジャーナを目指す瞑想者は同じ瞑想対象に集中しながら、粗大な要素から初めて段階的にジャーナの要素を消し去り、最終的に第5段階のジャーナ(禅定)に達します。しかし第5段階のルーパッジャーナ(物質を対象にして得られた禅定)から第一段階のアルーパッジャーナ(物質でないものを対象に得られた禅定)へとステップアップする時、アルーパッジャーナ(物質でないものを対象に得られた禅定)の中でステップアップする時には、乗り越えるべきジャーナ(禅定)の要素はもはやありません。代わりに、各段階の瞑想対象を乗り越えて、次の段階のよりかすかな瞑想対象へと移っていかなければなりません。

アルーパッジャーナ(物質でないものを対象に得られた禅定)のチッタは全て、第5段階のルーパッジャーナ(物質を対象にして得られた禅定)と同じ二つのジャーナ(禅定)の要素、ウペッカー(心が静まり楽も苦も感じなくなった状態)とエーカッガター(一つの対象に対する集中が途切れなく持続した状態)を含みます。そのため、時に4段階のアルーパッジャーナ(物質でないものを対象に得られた禅定)を、第5段階のルーパッジャーナ(物質を対象にして得られた禅定)に含めて話をする場合があります。チッタとして見た場合、異なる意識の領域に属し、また瞑想対象も異なるため、第5段階のルーパッジャーナ(物質を対象にして得られた禅定)とは異なります。しかし、ジャーナ(禅定)の観点から見れば、同じ二つのジャーナ(禅定)の要素から構成されるため、アビダンマを教える指導者たちは折に触れアルーパッジャーナ(物質でないものを対象に得られた禅定)を第5段階のルーパッジャーナ(物質を対象にして得られた禅定)の一部とみなすことがあります。

15種類のルーパッジャーナ(物質を対象にして得られた禅定)と、12種類のアルーパッジャーナ(物質でないものを対象に得られた禅定)をまとめて、マハッガタチッタ(荘厳な、高尚な、高貴なチッタ)と呼ぶ場合があります。なぜなら、ニーヴァラナ(集中を妨げる五つの要因)から離れており、清潔で、レベルが高く、偉大な心の状態だからです。

これまでお話しした81個のチッタは全てローキヤチッタ(涅槃を悟っていない普通の人々の意識の領域におけるチッタ)と名付けられています。なぜなら、カーマローカ(感覚的楽しみを追い求める世界)、ルーパローカ(物質を対象にして得られた禅定に関連する世界)、アルーパローカ(物質ではないものを対象にして得られた禅定に関連する世界)という三つの世界に属するからです。

第26節 ロークッタラクサラ(涅槃を悟った聖者たちの意識の領域における、善業を作る)チッタ:4種類

1、ソーターパッティ マッガチッタン
2、サカダーガーミ マッガチッタン
3、アナーガーミ マッガチッタン
4、アラハント マッガチッタン チャ― ティ
イマーニ チャッターリ ピ ロークッタラクサラチッターニ ナーマ

1、ソーターパッティという悟りの第1段階の道のチッタ
2、サカダーガーミという悟りの第2段階の道のチッタ
3、アナーガーミという悟りの第3段階の道のチッタ
4、アラハントという悟りの第4段階の道のチッタ

この四つがロークッタラクサラ(涅槃を悟った聖者たちの意識の領域に、善業を作る)チッタです。

第27節 ロークッタラヴィパーカ(涅槃を悟った聖者たちの意識の領域に関連する、業の結果としての)チッタ:4種類

5、ソーターパッティ パラチッタン
6、サカダーガーミ パラチッタン
7、アナーガーミ パラチッタン
8、アラハント パラチッタン チャ― ティ
イマーニ チャッターリ ピ ロークッタラクサラチッターニ ナーマ

5、ソーターパッティという悟りの第1段階の果のチッタ
6、サカダーガーミという悟りの第2段階の果のチッタ
7、アナーガーミという悟りの第3段階の果のチッタ
8、アラハントという悟りの第4段階の果のチッタ

この四つがロークッタラヴィパーカ(涅槃を悟った聖者たちの意識の領域に関連する、業の結果として生じる)チッタです。

第28節 ロークッタラ(涅槃を悟った聖者たちの意識の領域に関連する)チッタのまとめ

チャトゥマッガッパベーデーナ チャトゥダー クサラン タター
パーカン タッサ パラッター ティ アッタダーヌッタラン マタン

クサラ(善業を作る)チッタは四つの道により4種類、ヴィパーカ(業の結果として生じる)チッタは対応する四つの果により4種類あります。従ってロークッタラには8種類あると理解してください。

第26~28節へのガイド

ロークッタラチッタ(ニッバーナを悟った聖者たちの意識の領域に関連するチッタ):ロークッタラチッタは、パンチャッカンダ(ルーパ(物質)、ヴェーダナー(感受)、サンニャー(認知)、サンカーラ(意思形成)、ヴィンニャーナ(感覚を感じたという意識)という執着の五つの塊)により形作られる世界(ローカ)を超越(ウッタラ)する過程に関係するチッタです。この種類のチッタはサンサーラ(輪廻=死と再生の無限の繰り返し)からの解脱とニッバーナ(苦しみの消滅)への到達へと導きます。ロークッタラチッタ(ニッバーナを悟った聖者たちの意識の領域に関連するチッタ)には8つあり、悟りの4つの段階、ソーターパッティ(輪廻からの解脱を妨げる10個のキレーサ=心の汚れのうち、ヴィチキッチャー=ブッダ・ダンマ・サンガに対する疑い、とディッティ=変化しない実体があるという誤った見解、という2つのキレーサが絶滅した悟りの第一段階)、サカダーガーミ(パティガ(嫌悪)とカーマラーガ(官能的な欲)が極めて小さくなった悟りの第二段階)、アナーガーミ(パティガ(怒り)が絶滅した悟りの第3段階)、アラハント(残りのキレーサ=心の汚れが全て絶滅し、輪廻からの解脱を果たした悟りの最終段階)に関連します。表の1.7に示すように、それぞれの悟りの段階はマッガ(道の)チッタとパラ(果の)チッタという二つのチッタから構成されます。マッガ(道の)チッタにはキレーサ(解脱を妨げる心の汚れ)を根絶ないし永遠に消し去るという働きがあります。パラ(果の)
チッタには、それぞれのマッガ(道の)チッタがもたらす、悟りの段階に応じた解放を経験するという働きがあります。マッガ(道の)チッタはクサラ(善業を作る)チッタでパラ(果の)チッタはヴィパーカ(業の結果として生じる)チッタに相当します。

それぞれのマッガ(道の)チッタが生じるのは一度だけであり、チッタ一個分の時間単位(チッタッカナ)しか持続しません。マッガ(道の)チッタを得た人の心に同じマッガ(道の)チッタが再び現れることはありません。それぞれのマッガ(道の)チッタに応じたパラ(果の)チッタは、最初はマッガ(道の)チッタのすぐ後に生じ、チッタ二つないし三つ分の時間だけ持続します。そしてその後は何度も繰り返し現れます。訓練により、パラサマーパッティ(果定、第4章、第22節;第4章、第42節参照)と呼ばれるロークッタラ(ニッバーナを悟った聖者たちの意識の領域)の没入状態の中で長時間持続させることが出来るようになります。

マッガ(道)、パラ(果)は洞察を育てる瞑想、ヴィパッサナー瞑想により得ることが出来ます。この種の瞑想は智慧(パンニャー)の力を強化する訓練を含みます。常に変化している心と身体の現象を、途切れることなく観察することで瞑想者は永続せず、苦しみであり、実体が無いという、心と身体の現象の本質が分かるようになります。洞察が完璧に熟すると、そこからロークッタラ(涅槃を悟った聖者たちの意識の領域)のマッガ(道)とパラ(果)が現れます。

ソーターパッティマッガチッタ(輪廻からの解脱へと向かう流れに入った悟りの第一段階の道のチッタ):後戻りすることのない悟りの道へ入ることをソーターパッティ(輪廻からの解脱へと向かう流れに入ったもの)と呼び、それを達成したことを経験するチッタがソーターパッティマッガチッタ(輪廻からの解脱へ向かう流れに入った悟りの第一段階の道のチッタ)です。ソータとはアーリヤアッティンギカマッガ(聖なる八つの正しい道)のことです。サンマーディッティ(正しい見解)、サンマーサンカッパ(正しい思念)、サンマーヴァーチャー(正しい言葉)、サンマーカンマンタ(正しい行い)、サンマーアージーヴァ(正しい生計)、サンマーヴァーヤーマ(正しい努力)、サンマーサティ(正しい気づき)、サンマーサマーディ(正しい集中)の八つからなる道です。ヒマラヤの山中に元をたどるガンジス河が途切れることなく大海へと流れるように、サンマーディッティ(正しい見解)から始まるアーリヤアッティンギカマッガ(聖なる八つの正しい道)はニッバーナ(心の汚れが根絶やしとなり、輪廻からの解脱を果たした状態)へと途切れることなく流れて行きます。

アッティンギカマッガ(八つの正しい道)はニッバーナ(涅槃)を悟っていないけれども道徳的に生きる一般の人々のカーマーヴァチャラクサラ(感覚的な楽しみを追い求める意識の領域における、善業を作る)チッタにも生じます。しかし、輪廻からの解脱を目指すという目標が定まっていません。ニッバーナ(涅槃)を悟っていない一般の人々の場合は、その性質が変わり、ダンマから離れてしまう可能性があるからです。しかし輪廻からの解脱へと向かう流れに入った聖なる弟子たちは、しっかりと目標が定まり、水の流れのようにニッバーナ(涅槃)へと確実に向かって行きます。

ソーターパッティマッガ(悟りの第一段階の道の)チッタの機能は、人を輪廻に繋ぎ止める10個の足枷(サンヨージャナ)の内の最初の3つ、(1)ディッティ(自己という実体があるという誤った見解)、(2)ヴィチキッチャー(ブッダ・ダンマ・サンガとその教えに対する疑い)、(3)シーラッバタパラマサ(祭礼や儀式が輪廻からの解脱に導くと考えてそれに執着すること)を断ち切ることです。さらに、人間より下の生存世界への再生をもたらす強いローバ(欲)、ドーサ(怒り)、モーハ(真理が分からず混乱した状態)を断ち切る働きもあります。またこのチッタは他の五つのチッタ、つまりローバムーラディッティガタサンパユッタ(自己という実体があるという誤った見解が付随し、欲というチッタを安定させる根を持つ)チッタ4つ(第4節参照)と、モーハムーラヴィチキッチャーサンパユッタチッタ(真理が分からず混乱した状態というチッタを安定させる根を持ち、ブッダ・ダンマ・サンガに対する疑いが付随するチッタ)一つ(第6節参照)もまた永久に根絶やしにします。解脱の流れに入った聖者は最高で7回再生する内に確実に輪廻からの解脱に達するとされています。また人間より下の悲惨な生存世界に再生することはありません。

サカダーガーミマッガチッ(悟りの第二段階の道の)チッタ:これはアーリヤアッティンギカマッガ(聖なる八つの正しい道)に関連するチッタでサカダーガーミという悟りの第二段階の意識の領域に到達させます。このチッタは生命を輪廻に繋ぎ止める足枷(サンヨージャナ)を根絶することはありませんが、サンヨージャナの内のカーマラーガ(官能的な欲)とパティガ(嫌悪)を極めて小さくします。この段階に達した聖者は感覚的な楽しみを追い求める生存領域のうち人間界ないし天界(多くの場合天界)に1回だけ再生し、その後解脱に達するとされています。

アナーガーミマッガ(悟りの第三段階の道の)チッタ:この段階に達した聖者は感覚的な楽しみを追い求める生存領域に再生することはありません。その生涯で悟りの最終段階であるアラハントに達しなかった場合は、ルーパブーミ(物質を対象にした禅定に関連する生存領域で、微細な物質しか存在しない)にのみ再生し、そこで最終的な悟りを得て輪廻から解脱します。このチッタはサンヨージャナ(生命を輪廻に繋ぎ止める足枷)の内、カーマラーガ(官能的な欲)とパティガ(嫌悪)を根絶やしにします。またドーサ(怒り)をへートゥ(チッタを安定させる根)とするチッタ2つ(第5節参照)が永久に無くなります。

アラハッタマッガ(悟りの最終段階、アラハントの道の)チッタ:アラハントはサンサーラ(輪廻=死と再生の無限の繰りかえし)から完全に解脱した人です。心の汚れという敵(ari)を、破壊した(hata)人という意味です。このチッタは直接アラハントに輪廻からの解脱をもたらします。また五つのかすかなサンヨージャナ(人を輪廻の結びつける足枷)、バワラーガ(微細な物質しかない生存領域であるルーパブーミ、物質のない生存領域であるアルーパブーミへの再生に対する願望)、マーナ(自分と他者を比較する心の汚れ)、ウッダッチャ(不穏、興奮)、アヴィッジャー(真理に対する無知)を破壊します。このチッタはまた残ったアクサラチッタ(不善業を作るチッタ)、すなわちローバムーラデッティガタヴィッパユッタチッタ(欲というチッタを安定させる根を持ち、実体のある自己が存在するという誤った見解が付随しないチッタ)4種(第4節参照)、モーハムーラウッダッチャサンパユッタチッタ(真理がわからず混乱した状態というチッタを安定させる根を持ち、不穏・興奮が付随するチッタ)1種類(第6節参照)も取り除きます。

パラチッタ(果のチッタ):それぞれのマッガ(道の)チッタは、それが生じた直後、同じ認識過程の中において、自動的に相応のパラ(果の)チッタをもたらします。その後は、瞑想者がニッバーナ(涅槃)を対象に瞑想するたびに、パラ(果の)チッタが繰り返し生じます。パラ(果の)チッタは分類の上ではヴィパーカ(業の結果として生じる)チッタに相当します。なおロークッタラ(涅槃を悟った人たちの意識の領域)にはキリヤ(働きだけの)チッタが無いことに注意してください。アラハントがパラ(果)を基にした禅定に入った場合、その禅定の中で生じるチッタはロークッタラマッガ(涅槃を悟った人たちの意識の領域における道)がもたらす果であり、ヴィパーカ(業の結果として生じる)チッタのグループに属するからです。

第29節 チッタのまとめ

ドゥバーダサークサラーネーヴァン クサラーネーカヴィーサティ
チャッティムセーヴァ ヴィパーカーニ キリヤーチッターニ ヴィーサティ

チャトゥパンニャーサダー カーメー ルーペー パンナーラスィーライェー
チッターニ ドゥヴァ―サダールッペ アッタダーヌッタレー タター

このように、アクサラ(不善業を作る)チッタが12種、クサラ(善業を作る)チッタが21種類あります。ヴィパーカ(業の結果として生じる)チッタは36種類、キリヤー(機能だけの)チッタが20種類となります。

カーマーヴァチャラ(感覚的喜びを追い求める意識の領域における)チッタは54種類、ルーパーヴァチャラ(物質を対象とした禅定に関連する意識の領域における)チッタが15種類、アルーパーヴァチャラ(物質でないものを対象にした禅定に関連する意識の領域における)チッタが12種類、ロークッタラ(涅槃を悟った聖者たちに関連する意識の領域における)チッタが8種類となります。

29節へのガイド

この偈文の中で、アーチャリヤ・アヌルッダ尊者は、ここまでに開設した89個のチッタ全てをまとめています。偈文の最初の部分でチッタをその性質ないし種類(ジャーティ)により四つのグループに分けています(表1.8参照)。

12 アクサラ(不善業を作る)チッタ
21 クサラ(善業を作る)チッタ
36 ヴィパーカ(業の結果として生じる)チッタ
20 キリヤ(機能だけの)チッタ
最後の二つはカンマ(業)の観点からクサラ(善を作る)、アクサラ(不善業を作る)に区分することができない(アビャーカタ)という理由から一つのグループとして取り扱われます。

2番目の偈文では、同じ89種類のチッタをチッタの存在領域(ブーミ)により四つのグループに分けています。

54 カーマーヴァチャラ(感覚的な楽しみを追い求める意識の領域における)チッタ
15 ルーパーヴァチャラ(物質を対象とした禅定に関連する意識の領域における)チッタ
12 アルーパーヴァチャラ(物質でないものを対象とした禅定に関連する意識の領域における)チッタ
8 ロークッタラ(涅槃を悟った聖者たちの意識の領域における)チッタ

チッタは対象を認識するという性質からみれば一つですが、これまで述べたような様々な基準により多くの種類に区分されています。

エーカヴィーササターニ チッタ(121種類のチッタの分類)

第30節 簡略した説明

イッタン エークーナナヴティッパベーダン パナ マーナサン
エーカヴィーササタン ヴァータ ヴィバンジャンティ ヴィチャッカナー

このようにチッタは89種類に区分されますが、賢者は121種類に分類します。

第31節 詳細な説明

カタン エークーナナヴティビッダン チッタン エーカヴィーササタン ホーティ?
1、ヴィタッカ・ヴィチャーラ・ピーティ・スカ・エーカッガター・サヒタン 
パタマッジャーナ ソーターパッティ マッガチッタン
2、ヴィチャーラ・ピーティ・スカ・エーカッガター・サヒタン ドゥティャッジャーナ ソーターパッティ マッガチッタン
3、ピーティ・スカ・エーカッガター・サヒタン タティャッジャーナ 
ソーターパッティ マッガチッタン
4、スカ・エーカッガター・サヒタン チャトゥタッジャーナ ソーターパッティ 
マッガチッタン
5、ウペッカー・エーカッガター・サヒタン パンチャマッジャーナ ソーターパッティ マッガチッタン チャー ティ

イマーニ パンチャ ピ ソーターパッティマッガチッターニ ナーマ
タター サカダーガーミーマッガ アナーガーミーマッガ アラハントマッガチッタン チャーティ サマヴィーサティ マッガチッターニ
タター パラチッターニ チャー ティ ソーマチャッターリーサ 
ロークッタラチッターニ バヴァンティ ティ

89種類に分類されたチッタがどのようにして121種類に分類されるのでしょうか。

1、ヴィタッカ(認識対象に注意を向かわせる要素)、ヴィチャーラ(認識対象に向いた注意を持続させる要素)、ピーティ(喜び)、スカ(精神的な安楽)、エーカッガター(一つの対象に対する集中が途切れなく持続した状態)を伴う、ソーターパッティ(悟りの第一段階)の第一段階の禅定のチッタ
2、ヴィタッカ(認識対象に注意を向かわせる要素)、ヴィチャーラ(認識対象に向いた注意を持続させる要素)、ピーティ(喜び)、スカ(精神的な安楽)、エーカッガター(一つの対象に対する集中が途切れなく持続した状態)を伴う、ソーターパッティ(悟りの第一段階)の第二段階の禅定のチッタ
3、ピーティ(喜び)、スカ(精神的な安楽)、エーカッガター(一つの対象に対する集中が途切れなく持続した状態)を伴う、ソーターパッティ(悟りの第一段階)の第三段階の禅定のチッタ
4、スカ(精神的な安楽)、エーカッガター(一つの対象に対する集中が途切れなく持続した状態)を伴う、ソーターパッティ(悟りの第一段階)の第四段階の禅定のチッタ
5、ヴペッカー(心が静まり楽も苦も感じなくなった状態)を伴う、ソーターパッティ(悟りの第一段階)の第五段階の禅定のチッタ

この五種類がソーターパッティのマッガ(道の)チッタです。サカダーガーミー(悟りの第二段階)、アナーガーミー(悟りの第3段階)、アラハント(悟りの最後の段階)の場合も同じです。このように数えることでマッガ(道の)チッタは全部で20となります。同様に、パラ(果の)チッタも20となり、ロークッタラ(涅槃を悟った聖者たちの意識の領域における)チッタは合計40となります。

第31~32節へのガイド

瞑想者は全てパンニャー(現象をありのままに見る智慧)、すなわち無常(全ての現象は常に変化している)・苦(生と死を繰り返す輪廻は苦しみである)・無我(全ての現象には自己と呼べる変わらぬ実体はない)に対する洞察を通してロークッタラ(涅槃を悟った聖者の意識の領域)のマッガ(道)・パラ(果)に到達します。しかしながら、瞑想者のサマーディ(集中)の熟達度合には差があります。ジャーナ(禅定:集中が高度に高まった状態)を得ずに洞察を培う瞑想者はスカヴィパッサカ(洞察瞑想だけの実践者)と呼ばれ、マッガ(道)・パラ(果)に達した時には、そのマッガ(道の)チッタ・パラ(果の)チッタはジャーナ(禅定)の第一段階のレベルに相当します。

ジャーナ(禅定)を基にして洞察を培う瞑想者は、マッガ(道)に到達する際のジャーナ(禅定)のレベルに応じたマッガ(道)・パラ(果)を得ます。マッガ(道)・パラ(果)のジャーナ(禅定)のレベルを決める要素が何なのかについての見解は指導者によって異なります。一つの学派は、パーダカッジャーナ(基礎的な禅定)、つまり洞察を得る前に心を集中させる基礎となるジャーナ(禅定)が絶頂に達した時にロークッタラマッガ(涅槃を悟った聖者の意識の領域の道)を得ると説明しています。2番目の説は、サンマスィタッジャーナ(理解ないし観察対象としての禅定)と呼ばれる洞察の観察対象として用いたジャーナ(禅定)の種類によりマッガ(道)のジャーナ(禅定)レベルが決まるとしています。第三の学派によれば、ジャーナ(禅定)の各段階をマスターした瞑想者は、マッガ(道)のジャーナ(禅定)レベルを個人的な願望ないし好みに応じてコントロールできるとされています(アッジャーサヤ)。

どのような説を採用したとしても、全てのマッガ(道の)チッタ・パラ(果の)チッタはジャーナ(禅定の)チッタの一種とみなされます。これは洞察瞑想だけを行う瞑想者の場合も、ジャーナ(禅定)を目指して集中瞑想を行ってから洞察を得る瞑想者の場合も同じです。その理由は、(1)マッガ(道の)チッタ・パラ(果の)チッタが生じるのはローキヤジャーナ(涅槃を悟っていない一般の人たちの意識の領域における禅定)の場合と同じように、瞑想対象に完全に没入し深い瞑想に入っている時である、(2)マッガ(道の)チッタ・パラ(果の)チッタは相応のローキヤジャーナ(涅槃を悟っていない一般の人たちの意識の領域における禅定)と同じ強さのジャーナ(禅定)の要素を含んでいる、という二点です。マッガ(道)・パラ(果)というロークッタラジャーナ(涅槃を悟った聖者の意識の領域の禅定)はいくつかの重要な点でローキヤジャーナ(涅槃を悟っていない一般の人たちの意識の領域における禅定)と異なります。第一に、ローキヤジャーナ(涅槃を悟っていない一般の人たちの意識の領域における禅定)の瞑想対象はカスィナ(集中瞑想の対象として使う色のついた円盤)のイメージなどの概念を対象にしますが、ロークッタラジャーナ(涅槃を悟った聖者の意識の領域の禅定)の瞑想対象は、条件に左右されない真理であるニッバーナ(涅槃)です。第2にローキヤジャーナ(涅槃を悟っていない一般の人たちの意識の領域における禅定)の場合、キレーサ(心の汚れ)は一時的に抑圧されるだけでその根底にある種はそのまま残りますが、ロークッタラジャーナ(涅槃を悟った聖者の意識の領域の禅定)はキレーサ(心の汚れ)を根絶やしするため二度と生じることがありません。第三に、ローキヤジャーナ(涅槃を悟っていない一般の人たちの意識の領域における禅定)はルーパブーミ(物質を対象にした禅定に関連する意識の存在領域)への再生をもたらし、生と死の繰り返しが続きますが、ロークッタラジャーナ(涅槃を悟った聖者の意識の領域の禅定)は生命をサンサーラ(輪廻:生と死の永遠の繰り返し)に繋ぎ止めるサンヨージャナ(足かせ)を断ち切り、生と死の繰り返しからの解放をもたらします。最後に、ローキヤジャーナ(涅槃を悟っていない一般の人たちの意識の領域における禅定)の場合は智慧より集中が優先されますが、ロークッタラジャーナ(涅槃を悟った聖者の意識の領域の禅定)の場合は智慧と集中の調和がとれています。集中により心を「条件に左右される対象」に固定し、智慧により「四つの聖なる真理(苦しみ、苦しみの原因、苦しみの滅尽、苦しみの滅尽に至る道)」を深く究明します。

五段階のジャーナ(禅定)の区分を基にし、含まれるジャーナ(禅定)の要素に応じて、マッガチッタ(道のチッタ)・パラチッタ(果のチッタ)が細分されます。ロークッタラチッタ(涅槃を悟った聖者の意識の領域のチッタ)を単にマッガ(道)とパラ(果)に分けて全部で八つと数える方法の代わりに、それぞれのマッガチッタ(道のチッタ)・パラチッタ(果のチッタ)をそれが生じた際のジャーナ(禅定)のレベルによりさらに五つに分けることが出来ます。このようにすると八つのロークッタラチッタ(涅槃を悟った聖者の意識の領域のチッタ)はそれぞれが五つのジャーナ(禅定)のレベルにより細分され、合計で40種類となります(表1.10参照)。

第32節 結論とまとめ

ジャーナンガヨーガベーデーナ カトゥッヴェーケーカン トゥ パンチャダー 
ヴッチャッターヌッダラン チッタン チャッターリサヴィダン ティ チャ
ヤター チャ ルーパーヴァチャラン ガヤーターヌッタラン タター
パタマーディジャーナーベーデー アルッパン チャー ピ パンチャーメー
エーカダサヴィダン タスマー タカマーディカン イーリタン
ジャーナン エーケーカン アンテー トゥ テーヴィサティヴィッダン バーヴェー
サッタティンサヴィッダン パンニャン ドゥヴィパンニャーサヴィッダン タター
パーカン イッチャーフ チッターニ エーカヴィササタン ブダー ティ

それぞれのチッタをジャーナ(禅定)の要素の違いにより5種類に分けると、ロークッタラチッタ(涅槃を悟った聖者の意識の領域のチッタ)は全部で40種類になります。

ルーパーヴァチャラチッタ(物質を対象にした禅定に関連する意識の領域のチッタ)が禅定の第一段階から始まって五つとなるように、ロークッタラチッタ(涅槃を悟った聖者の意識の領域のチッタ)も五段階に分類されます。なお、アルーパ―ヴァチャラ(物質でないものを対象にした禅定に関連する意識の領域における)チッタは第五段階のジャーナ(禅定)に分類されます。

このようにして、第1段階から第4段階までのジャーナ(禅定)がそれぞれ11種類、第5段階のジャーナ(禅定)が23種類となります。

クサラ(善業を作る)チッタが37種類、ヴィパーカ(業の結果として生じる)チッタが52種類です。こうして、賢者はチッタを121種類に分類します。

第32節へのガイド

アルーパーヴァチャラ(物質でないものを対象にした禅定に関連する意識の領域における)チッタは第5段階のジャーナ(禅定)に分類されます:以前説明した通り、4段階のアルーパッジャーナ(物質でないものを対象にした禅定に関連する意識の領域の禅定)は全て第5段階のルーパッジャーナ(物質を対象にした禅定に関連する意識の領域の禅定)の二つのジャーナ(禅定)要素であるウペッカー(心が静まり楽も苦も感じなくなった状態)とエーカッガター(一つの対象に対する集中が途切れなく持続した状態)を持っています。このため第5段階のジャーナ(禅定)と同じグループとみなされています。従って、瞑想者がアルーパッジャーナ(物質でないものを対象にした禅定に関連する意識の領域の禅定)を基にして洞察を得た場合、そのマッガ(道の)チッタ・パラ(果の)チッタは第5段階ジャーナ(禅定)のロークッタラチッタ(涅槃を悟った聖者の意識の領域のチッタ)に分類されます。

このようにして、第一段階から第四段階までのジャーナ(禅定)がそれぞれ11種類:第1段階から第4段階までのジャーナ(禅定)チッタはそれぞれルーパヴァチャラクサラ(物質を対象にした禅定に関連する意識の領域における、善業を作る)チッタ、ルーパヴァチャラヴィパーカ(物質を対象にした禅定に関連する意識の領域における、業の結果として生じる)チッタ、ルーパヴァチャラキリヤ(物質を対象にした禅定に関連する意識の領域における、働きだけの)チッタの三つと、ロークッタラマッガ(涅槃を悟った聖者の意識の領域における道の)チッタ=クサラ(善業を作る)チッタ四つ、ロークッタラパラ(涅槃を悟った聖者の意識の領域における果の)チッタ=ヴィパーカ(業の結果として生じるチッタ四つ、合わせて11種類となります。

第5段階のジャーナ(禅定)が23種類となります:第5段階のジャーナ(禅定)にはルーパッジャーナ(物質を対象にした禅定に関連する意識の領域の禅定)の第5段階およびアルーパッジャーナ(物質でないものを対象にした禅定に関連する意識の領域の禅定)の第1段階から第4段階が含まれ、それぞれがルーパヴァチャラクサラ(物質を対象にした禅定に関連する意識の領域おける、善業を作る)チッタ、ルーパヴァチャラヴィパーカチッタ(物質を対象にした禅定に関連する意識の領域における、業の結果として生じる)チッタ、ルーパヴァチャラキリヤ(物質を対象にした禅定に関連する意識の領域における、働きだけの)チッタの三つに分かれるため15種類、これにロークッタラクサラ(涅槃を悟った聖者の意識の領域における善業を作る)チッタ=マッガ(道の)チッタ4つ、ロークッタラヴィパーカ(涅槃を悟った聖者の意識の領域における、業の結果としての)チッタ=パラ(果の)チッタ4つが加わり、全部で23となります(表1.11)。

ロークッタラクサラ(涅槃を悟った聖者の意識の領域における、善業を作る)チッタ=マッガ(道の)チッタ4つ、ロークッタラヴィパーカ(涅槃を悟った聖者の意識の領域における、業の結果として生じる)チッタ=パラ(果の)チッタ4つ、合計8種類をジャーナ(禅定)の5つの段階で細分類すると40となります。このように計算すると、クサラ(善業を作る)チッタが37種類、ヴィパーカ(業の結果として生じる)チッタが52種類となります。こうしてチッタの総数は89から121へと増えます。

イティ アビダンマッタサンガへ―
チッタサンガハヴィバーゴー ナーマ
パタモー パリッチェードー

これでアビダンマッタサンガハ(アビダンマの概要)の第1章、チッタの概要が終了します。

-dhamma