十二因縁・縁起

ヴェーダナーの影響:凡夫と阿羅漢の違い

ヴェーダナー(受)は体毛、爪、乾燥した皮膚などを除けば体中に常に生じています。

ヴェーダナー(受)とチッタ(心)はサハジャータダンマ(同時に生じ、同時に存在し、同時に消え去る現象)であり共に生じて、共に滅します。

普通のプトゥッジャーナ(凡夫:俗世間の人)はアリヤダンマ(聖なる法)を良く知りません。切り株でつまずいて足を捻挫した場合、痛みで苦しむだけでなくドーマナッサ(憂)というヴェーダナー(受)で苦しみます。そして痛みを癒すものを必死で追い求めタンハー(渇愛)が生じます。ドーマナッサヴェーダナー(憂受)が生じたことには全く気づきません。癒しに対する渇望(タンハー:渇愛)が生じたことにも気づきません。これがアヴィッジャー(無明)です。ですからプトゥッジャーナ(凡夫)がヴェーダナー(受)で苦しむ場合、痛みそのもの、ドーマナッサヴェーダナー(憂受)、タンハー(渇愛)、アヴィッジャー(無明)と、四回も剣で刺されたようになります。

最初に痛み(ドゥッカヴェーダナー:苦受)で苦しみます。次にドーマナッサヴェーダナー(憂受:心の苦しみ)で苦しみます。三番目に癒しを渇望(タンハー:渇愛)し、そして四番目にドーマナッサ(憂)やタンハー(渇愛)に気づきません(アヴィッジャー:無明)。このため比喩的に剣で四回刺された人に例えられます。

阿羅漢の場合は、ヴェーダナー(受)に見舞われても、身体の苦しみを受けるだけで、心で苦しむことはありません。マッガパラ(道果)で既にドーマナッサ(憂)を根絶やしにしているからです。

聖者や聖者の弟子はスカヴェーダナー(楽受)、ドゥッカヴェーダナー(苦受)を生じては滅するものである(アニッチャー:無常)とみて瞑想します。この場合はヴェーダナー パッチャヤー ドーマナッサ、受によって憂が生じるとかヴェーダナー パッチャヤー タンハー、受によって渇愛が生じることはありません。代わりにヴェーダナー パッチャヤー パンニャー、受によって智慧が生じるのです。言い換えればヴェーダナー(受)はドーマナッサ(憂)やタンハー(渇愛)の原因にはならず、智慧の原因となります。ヴェーダナー(受)はアニッチャ(無常)で、永続せず、二つの瞬間にわたって同じであり続けることは無いとあるがままに悟るからです。

煩悩があると、ヴェーダナー(受)を持続的で、絶え間無く、止むことの無い痛みと思い込みます。

瞑想中はドゥッカヴェーダナー(苦受)は避けられません。苦受は比喩的に剣の一刺しに例えられます。一差しごとに打ち負かさなければなりません。これはドーマナッサ(憂)が生じるたびに瞑想してそれが単なる生滅(アニッチャー:無常)に過ぎないことを洞察するという意味です。

したがって、生滅を対象とした瞑想を正しく行えばドーマナッサ(憂)が生じることは無く、結果としてソーカ(愁)、パリデーヴァ(悲)、ウパーヤーサ(悩)も生じません。こうしてパティッチャサムッパーダ(十二因縁)が真ん中で切断されます。

アヴィッジャー(無明)はタンハー(渇愛)ソーカ(愁)、パリデーヴァ(悲)、ウパーヤーサ(悩)などの他の要素と同時に生じ、同時に存在し、同時に消え去る要素であるということをはっきりと理解しておく必要があります。このためタンハー(渇愛)ソーカ(愁)、パリデーワ(悲)、ウパーヤーサ(悩)が取り除かれれば、アヴィッジャー(無明)はアヴィッジャー(無明)であり続けることはできなくなりヴィッジャー(明智)となります(ヴィッジャー ウダパーディ:明知の出現)。ヴィッジャー(明智)がアヴィッジャー(無明)に取って代わればパティッチャサムッパーダ(十二因縁)はその始めで壊れてしまうことを理解しなければなりません。(アヴィッジャー ニローダ サンカーラニロードー:無明が滅すれば、行が滅する)

瞑想中身体に痒みが生じたら、その生滅を対象に瞑想することを怠ってはなりません。もし瞑想しそこなえばローバ(貪)、ドーサ(瞋)、モーハ(痴)が忍び込む可能性が生じます。

パティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)の図をご覧ください。「ヴェーダナー パッチャヤー タンハー」と書かれています。マッガ(ヴィパッサナーマッガ:ヴィパッサナー道、ないしプッババーガマッガ:前分道)はヴェーダナー(受)とタンハー(渇愛)の間に入らなければなりません。言い換えればどのようなヴェーダナー(受)が生じてもその生滅を対象に瞑想しなければなりません。そうすればヴェーダナー(受)とタンハー(渇愛)の連結が生じません。セクションIIとセクションIIIの連結が断たれます。もう一度図をご覧ください。サンサーラ(輪廻)ないしパティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)の連鎖が切れます。パティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)がその真ん中で破壊されます。

ソータッパティ(預流)、サカーダガーミ(一来)、アナーガーミ(不還)、アラハッタ(阿羅漢)マッガ(道)はヴェーダナー(受)とタンハー(渇愛)の間で得られます。言い換えればマッガ(道)によってタンハー(渇愛)がヴェーダナー(受)から切り離されます。

ヴェーダナー ニローダー タンハー ニロードー、タンハー ニロードーティ マッゴー(ヴェーダナーが根絶やしになれば自動的にタンハーも根絶やしになります。タンハーが根絶やしになればマッガを得ます)と説かれています。原因が無くなれば結果は生じません。ですからヴェーダナー(受)をアニッチャ(無常)と見て瞑想すればタンハー(欲望、熱望、渇望)は生じません。

故モゴクセヤドーによれば究極の意味ではブッダが至高の覚りを得たのは金剛宝座の上ではありません。究極の覚醒はタンハー(渇愛)がヴェーダナー(受)から切り離されたその時点で生じたのです。

このような言葉は例外的で一般的ではないという人もいるかと思います。しかしブッダが菩提樹の下、金剛宝座の上で至高の覚りを得たのはこの究極の覚醒を得たからです。

これでパティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)のセクションIIとセクションIIIの連鎖を断ち切ることがいかに大事かお分かりいただけたと思います。連鎖を断ち切るということはヴェーダナー(受)を生滅、アニッチャ(無常)として瞑想しタンハー(渇愛)を生じさせないことです。

結論として強調したいのは俗世間の人々がアパーヤガーティ(悪趣、悲惨な生存世界に落ちること)から救えるのはヴィパッサナー瞑想以外に無いということです。

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