十二因縁・縁起

第二十一章

ヴェーダナーカンダ(受蘊)とパティチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)

この本を読んでいるのは誰でしょうか。読者は男ですか、女ですか、それともヴェーダナー(受)ですか。答えは何でしょうか。ヴェーダナー(受)は五蘊ないし生命のパンチャカンダ(五蘊:五つの構成要素)のひとつでヴェーダナーカンダ(受蘊)と呼ばれます。この本を読んでいるのはヴェーダナーカンダ(受蘊)であるというのが正しい答えです。読んでいるのは私でもあなたでもありません。

パティチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)の教えの中に「パッサ パッチャヤー ヴェーダナー」という所があります。パッサ(触)によってヴェーダナー(受)が起こるという意味です。先行する原因の結果です。

「ヴェーダナー(受)はいつどこで生じるのか」とまた疑問が生じるかもしれません。先行するパッサ(触)があればいつでもヴェーダナーが生じるというのが答えです。眼、耳、鼻、舌、身、意のどこでも生じます。私たちは誰といっしょに住んでいるのでしょうか。ヴェーダナー(受)といっしょに住んでいるのです。ヴェーダナーは空みたいなものです。指を指せばいつもそこに空があります。同じようにいついかなる瞬間もヴェーダナーがあります。ヴェーダナーは智慧と気づきで自分自身の中に観察するべきものです。ブッダはナクラピターに「五蘊を持ちながらヴェーダナーが存在しない瞬間があると主張するのは愚かとしか言いようがありません」と言われました。ヴェーダナーは普遍的でどこにでも存在します。修業者の一部はヴェーダナー(受)の存在がわからないためわざわざヴェーダナー(受)を探し求めます。眼に対象が触れればいつでもどこでも眼識を原因とした感受が生じます。耳が音に触れればいつでも耳識を原因とした感受が生じます。同じように鼻、舌、身、意に対象が触れればそれに応じた感受が生じます。そして対象が好ましいものか、好ましくないものか、あるいはそのどちらでもないかによって、それぞれスカヴェーダナー(楽受)、ドゥッカヴェーダナー(苦受)、ウペッカーヴェーダナー(不苦不楽受)が生じます。

ヴィパッサナー瞑想は涅槃の悟りへと人を導きます。痛みがヴェーダナー(受)の一つであることは誰でも知っていますが、熱心な修業者にはそれでは不十分です。もっとたくさんの事を知る必要があります。ヴェーダナー(受)を対象に瞑想している際に、ヴェーダナー(受)が存在し続けているとみなしたらそれは正しくありません。ヴェーダナー(受)を永遠に続くもの(ヴェーダナーニッチャ)と誤ってとらえてしまっているからです。真実はそうではありまあせん。ブッダは「ヴェーダナンアニッチャン」、ヴェーダナー(受)が永続することはありません、と説かれています。五蘊の他の構成要素と同じようにヴェーダナー(受)は二つの瞬間にわたって同じであり続けることはないのです。生じたら直ちに滅します。だから修業者はヴェーダナー(受)の消滅を無常という洞察により認識すべきです。ヴェーダナー(受)生じた次の瞬間に消滅します。

例をあげるとかゆみの感覚のようなものです。最初は耐え難いかゆみも徐々に和らいで最終的にはかゆみという感覚が完全に消えてしまいます。

言葉を変えれば最初はかゆみの強さが最大で、それが中くらいになり、そして最小となり最後に消えてしまいます。同様に痛み、疼き、病気も最初は強く感じますが徐々に和らいで行きます。一見連続しているように見えることから、感受が長く続くような幻想をいだくのです。ですから修業者はヴェーダナー(受)は生じては滅しており、痛みも疼きも一般に信じられているような長続きするものではないことを認識しなければなりません。

だからといってヴェーダナー(受)が生滅すると無理やり考えるのはやめた方がよいでしょう。そうではなく生起と消滅、すなわちダンマ(法)が常に指し示している無常を詳細に観察するようにしてください。

忘れてはならないのはヴェーダナー(受)を対象に瞑想する時は常にパティチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)を視野に入れておくことです。そうでないと決して真理に到達することはできません。

たとえばスカヴェーダナー(楽受)が生じてその生滅(無常)を観察・瞑想しそこねたらタンハー(渇愛)が必ず生じます。そしてタンハー(渇愛)が生じるとウパーダーナ(取)が生じ、ウパーダーナ(取)が生じるとカンマバヴァ(業有)が生じます。結果としてジャーティ(生)、ジャラー(老)、マラナ(死)が生じることになります。こうしてパティチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)の連鎖が止まることなく回転し続けます。このようにしてパティチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)の回転がその途中から始まるのです。

一方、スカヴェーダナー(楽受)の生滅(無常)を観察・瞑想することができればタンハー(渇愛)は生じません。タンハー(渇愛)が無ければウパーダーナ(取)も生じません。ウパーダーナ(取)が無ければ業有(カンマバヴァ)が生じることはありません。そしてジャーティ(生)、ジャラー(老)、マラナ(死)も生じません。こうしてパティチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)の連鎖がその途中で切断されます。

上で述べたやり方でドゥッカヴェーダナー(苦受)を正しく観察・瞑想しなければソーカ(愁)、パリデーヴァ(悲)、ドゥッカ(苦)、ドーマナッサ(憂)、ウパーヤーサ(悩)が必ず続きます。そしてパティチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)全体がその最後から回り始めます。

同様にウペッカーヴェーダナー(不苦不楽受)を正しく観察・瞑想しなければ、アヴィッジャー(無明)が必ず生じ、パティチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)がその最初から回転し始めます。

このように三種類のヴェーダナー(受)を正しく観察・瞑想しなければ、パティチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)がそれぞれ最初、中間、最後から回転を始めます。

逆に正しく観察・瞑想すれば、パティチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)はそれぞれ最初、中間、最後で切断されます。

ブッダは、スカヴェーダナー(楽受)の後にタンハー(渇愛)が続けば涅槃を悟ることはありえない、ドゥッカヴェーダナー(苦受)の後にドーサ(怒り)、ドーマナッサ(憂鬱)が生じれば涅槃を悟ることはありえない、と説かれました。

ウペッカーヴェーダナー(不苦不楽受)を瞑想しそこねればアヴィッジャー(無明)、モーハ(無知)が生じ、十二因縁(パティチャサムッパーダ)がその最初から回転し始めます。だから瞑想者は是非とも生滅を観察してください。ニダーナヴァッガサンユッタ(因縁品相応)ではアーサヴァ(煩悩)がなくなればアヴィッジャー(無明)はヴィッジャー(明智)となり、パティチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)がその最初から壊れてしまいます、と説かれています。三種類のヴェーダナーを注意深く瞑想・観察すればいつでもどこでも最初、途中、最後のいずれかでパティチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)は切断されます。

スカヴェーダナー(楽)、ドゥッカヴェーダナー(苦)、ウペッカーヴェーダナー(不苦不楽)の三つは交互に現れます。観察。瞑想を怠るとアヴッジャー(無明)が生じ、次いでサンカーラ(行)が生じます。そしてパティチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)全体が続いて生じます。

例えばヴィンニャーナ(識)はサンカーラ(行)が原因で生じます。ここで使っているヴィンニャーナ(識)はパティサンディヴィンニャーナ(結生識、次の生存への橋渡しとなる意識)を意味します。ブッダは善趣(スガティ、人間より上の世界) を得た人の数を指の爪の上にのったわずかな土に、そしてアパーヤガーティ(悪趣、悲惨な下層世界)に落ちる人の数を全世界の土に例えて説明されました。

-十二因縁・縁起