十二因縁・縁起

第十八章

サッサタディッティ(常見)、ウッチェーダディッテイ(断見)とその駆逐法

おいしそうな食べ物がダイニングテーブルの上に用意されているのを見ると食べたいというタンハー(渇愛)が生じます。そして再びその食べ物に対する圧倒的な欲望が生まれ、次いで行動に移します(カンマバヴァ:業有)。言い換えれば最初にタンハー(渇愛)が生じ、次いでウパーダーナ(取)が続き、さらにカンマバヴァ(業有)が続きます。こうしてタンハー(渇愛)、ウパーダーナ(取)、カンマバヴァ(業有)の三つの要素がそろいます。

ブッダは説かれました。「タンハー パッチャヤー ウパーダーナ」、タンハー(渇愛)をパッチャヤー(縁)としてウパーダーナ(取)が生じます。縁(パッチャヤー)が無ければ結果も生じません。だからタンハー(渇愛)もウパーダーナ(取)もあり得ません。

繰り返しますが次の連鎖は「ウパーダーナ パッチャヤー カンマバヴォー」です。カンマバヴァ(業有)は原因であるウパーダーナ(取)が無ければ生じ得ないことは明らかです。生じたウパーダーナ(取)は消え去り次の現象を生起させるパッチャヤー(縁)を残します。ですからパッチャヤー(縁)は明らかに因果関係の連続です。

全ての生命は渦巻きのようなタンハー(渇愛)、ウパーダーナ(取)、カンマバヴァ(業有)の絶え間無い連続の中で回っています。私たちは自分の中で実際に起こっている事がパティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)の教えに合っているかどうか検証しなければなりません。

「タンハー パッチャヤー ウパーダーナ」の中でタンハー(渇愛)とウパーダーナ(取)の間にあるパッチャヤーは独立した因子としてではなく、因果関係という機能を単に示していると理解してください。ウパーダーナ(取)がパッチャヤータンハー、すなわち渇愛を寄りどころとして生じるとことは明らかです。タンハー(渇愛)はウパーダーナ(取)を生起させる原因、すなわちパッチャヤー(縁)を残して消え去ります。ですから「タンハー パッチャヤー ウパーダーナ」となります。なぜウパーダーナ(取)が生じるのですかと質問されたらどうしますか。他に依存せずそれ自身で生じるのでしょうか、それともタンハー(渇愛)を原因として生じるのでしょうか。

この段階では、瞑想者はウパーダーナ(取)がタンハー(渇愛)を原因として生じることをはっきり理解しています。この一節を何度も何度もくりかえします。瞑想者が因果法則に習熟して「この世の現象は原因なく、独自に生じ、運任せで偶然に生じる」という概念や観念を追い払うことができるようにするためです。先行する現象が、次のウパーダーナ(取)が生じる道を開くのです。この場合ウパーダーナ(取)が生じるという道筋をつけるのはタンハー(渇愛)です。だからパッチャヤータンハー、すなわち渇愛を寄りどころとしてタンハー(渇愛)が生じるのです。この段階ではこの事実を深く考察するように瞑想者にアドバイスします。

この連鎖がはっきりとわかった瞑想者は因果法則を明確に理解することができます。さらに、現在の因果関係は先行する過去の因果関係の結果であり、過去と現在、現在と未来が連結していることもわかります。過去と現在の連結は無い、という信条にこだわるならその人はウッチェーダディッテイ(断見、虚無主義者的な誤った考え)を持っています。この邪見が立ちはだかると預流道果(ソーターパッティマッガ)を得ることは決してありません。

食事の例えに戻りますが、食べたいというタンハー(渇愛)が生じ、次いで食べることに対する圧倒的な欲望、執着が生じます。そして実際の行動(カーヤカンマ、身業)と言葉(ヴァチーカンマ、語業)が続きます。つまり、「私は大変空腹だ。出掛けて食べ物を手に入れよう。」ということになります。こうして因果法則の連鎖が生じます。最初の瞬間に食べることに対する渇愛が生まれそして消え去り、ウパーダーナ(取)の原因パッチャヤー(縁)が残ります。パッチャヤーがタンハー(渇愛)とウパーダーナ(取)を結ぶ機能を果たした時だけウパーダーナ(取)が生じうるということに注意してください。そしてまたウパーダーナ(取)がカンマバヴァ(業有)の原因、パッチャヤー(縁)を残して消え去ります。このように意識の働きが連鎖して生じているとみなすことができます。ですから現象はただ生起するだけではなく、次の新たな現象の下地をつくるということがはっきり分かれば瞑想者は常見(サッサタディッティ)の足かせから自由になっているということができます。

次の段階で為すべきことはどのような意識が生じてもただの意識であり、「私」、「我」、人格というものは存在しないということに気づき、それを理解することです。ローバ(貪欲)、ドーサ(怒り)、モーハ(無知)やその他もろもろの意識が生じるのはごく自然なことですが、瞑想者はそれを単なる意識でありそれ以外の何物でも無いとみなし、認識しなければなりません。どのような意識が生じてもそれに集中し、それぞれの意識が生じた瞬間にそれに気づき、それがただの精神現象であり「私」、「我」、「私を」、「私のもの」などと人格化できるものは何もないと理解しなければなりません。眼識が生じても見ているのは「私」ではありません。「見ている人」というのは存在しないのですから。また耳識が生じても聞いているのは「私」ではありません。「聞いている人」というのはいません。あるのは聞いているという事実だけであり、そこには「私」「我」「私に」「私のもの」などと人格化できるものはありません。

瞑想者が何かを見た時に、みたのは「私」と考えたら、そのような信条、見解が有身見(サッカーヤディッティ)と呼ばれます。

瞑想者が見たものを知覚し、認識する時、それはただの眼識であり、知覚するのは識蘊(ヴィンニャーナカンダ)です。そこにあるのはただのサッカーヤでありディッティはありません。サッカーヤの意味は五蘊ないし構成要素です。五蘊の一つを「私」「我」ないし人格とみる誤った見解がディッティです。例えば眼識が生じて、見たのは「私」とみなしたら、それは有身見(サッカーヤディッティ)と呼ばれます。同様に、耳識が生じて、聞いたのは「私」とみなしたら、それは有身見(サッカーヤディッティ)と呼ばれます。鼻識が生じて、嗅いだのは「私」とみなしたら、それは有身見(サッカーヤディッティ)です。心識が生じて、考えたのは「私」とみなしたら、それは有身見(サッカーヤディッティ)と呼ばれます。意識を誤って「私」「我」ないし人格と誤みなしたらそれが有身見(サッカーヤディッティ)なのです。
「見ている」のも「聞いている」のも「嗅いでいる」のも単に五蘊が生じただけで、「私」や「我」や人格などありえない、という知識を得たら、その瞑想者からは有身見(サッカーヤディッティ)が追い払われ、駆逐されている言うことができます。

俗世間の人々は常にサッカーヤとディッティを結び付ける傾向にあります。瞑想者が為すべきはサッカーヤとサンマーディッテイ(正見)を結び付けることです。サッカーヤとディッティの結びつきが有身見(サッカーヤディッティ)という誤った見解を作るのです。

輪廻の全体を通じて私たちはサッカーヤとディッティを結び付け、混合してきたのです。

まだやっていないのですか?

いかなる時も五蘊のどれか一つが代わる代わる生じています。五蘊の一つが生じたら、ただ五蘊の一つが生じただけでありそれ以外の何物でもないと気づき、それを「私」「我」ないし人格と混同しないようにしなければなりません。

以上で瞑想者はサッカーヤについて十分な知識を得たことになります。それでサッカーヤとサンマーディッティ(正見)を結び付けることができます。

ですから瞑想者は好ましくない法(ダンマ)から離れて、好ましい法(ダンマ)すなわちサンマーディッテイ(正見)に親しむようにしてください。

サッカーヤをサッカーヤだけと見て深入りせず、ディッティと混同することが無ければ、その瞑想者は邪見(ミッチャーディッティ)という足かせを打ち砕き、来世でアパーヤガーティ(悪趣、悲惨な生存世界)へ落ちる危険はなくなると言われています。)

<脚注>
ヴィパッサナー瞑想を効果的に実践するためには、最初に基本を十分に理解することをお勧めします。まずはナーマルーパ(名色)、次いで十二因縁の教義に精通してください。基本をよく知らない人にはヴィパッサナー瞑想を教えないのがモゴクセヤドーの方針でした。この二つの基本をしっかり勉強するまでヴィパッサナー瞑想を教えませんでした。ニャータパリンニャー(知遍知)によりディツテイ(見)を追い払うためでした。ニャータパリンニャー(知遍知)の後にはティラナパリンニャ(分析遍知)が続きます。

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