十二因縁・縁起

第十七章

邪見を取り除く方法

ブッダはアパーヤガーティ(悲しみに満ちた悲惨な生存世界)に落ちる根本原因を駆逐し根絶しなければならないと説かれました。その根本原因というのは邪見(ミッチャーディッティ)です。邪見が心にはびこっている人は、殺生したり、盗んだり、性的な不義を働いたり、母親を殺したり、ひどい場合はブッダに血を流すような怪我を追わせたりします。そしてそれに対して良心の呵責を感じることはありません。全ての不善行為、過ちは邪見の結果だからです。

このためブッダはアパーヤガーティ(悲しみに満ちた悲惨な生存世界)に落ちる根本原因を駆逐し根絶しなければならないと説かれたのです。

大多数の人はアクサラカンマ(不善業)がアパーヤガーティ(悲しみに満ちた悲惨な生存世界)の原因と考えています。しかしくまなく調べて見れば真犯人はミッチャーディッティ(邪見)だとわかります。罪人を絞首刑にするのは死刑執行人ですが、本当の権限は死刑を宣告した裁判官にあるということは疑いの余地がありません。

同じように衆生をアパーヤガーティに向かわせるのはディッティ(見)です。

カンマ(業)はただ衆生をアパーヤガーティに放り出すだけで真犯人ではありません。だから邪見は大変有害なのです。邪見がなぜ根本原因になるのかについては以下のように説明されています。

私たちには食べたい、眠りたい、話したいなど様々な思考が生じますがそれを人格と間違えてしまいます。「私は食べたい」、「私は眠りたい」、「私は話したい」といった具合です。そのような誤った認識が高じると、現象が生じるたびに「私」、「私は」、「私のもの」といった人格ないし自我が生じるようになります。思考や意識はアーランマナ(対象)がドゥヴァーラ(感覚門)に触れた結果として生じます。このようにして人格、「私」、「自我」、「私のもの」、「私に」といった概念が入り込みます。したがって私達は何かを見た時に「私が見た」、何かを聞いた時に「私が聞いた」などと誤った考えを抱かないように気をつけなければなりません。「見る人」、「聞く人」、「なにかをする人」はいません。全て因果法則の結果です。ドーサチッタ(怒りの心)、ローバチッタ(貪りの心)が生じたら、怒りの心、貪りの心、と観察、認識し、理解しなければなりません。これらの心はその働きと役割にしたがって生じるということを理解しなければなりません。修行が進むと修行者の心に「存在するのは意識だけである」という思いが生じます。この段階でさらに強調すべきは、精神状態はただの現象であって存在するのは意識だけである、だから「私」、「自我」、「私に」、「私のもの」といったものは存在しない、ということです。

繰り返しますが嫉妬、布施をしたいという思考など、どのような思考が生じてもただの精神現象としてラベリングし理解しなければなりません。「煙草を吸いたい」という思考が生じたら、それはただの思考、意識であり「私」が吸いたいのではないとラベリングし理解しなければなりません。

これらの思考はその機能と役割に応じて生じただけであり、「私」、「自我」とみなせるものはどこにもありません。二つの現象が続いて起こった結果、一連の意識が生じたと心の中でラベリングしなければなりません。そしてそのように理解しなければなりません。

入息の意識ないし思考が生じたら心の中でそれをありのままにラベリングしなければなりません。出息の意識ないし思考が生じたらそれも心の中でありのままにラベリングしなければなりません。「私」、「自我」が息を吸ったり吐いたりしているのではありません。これはとても大切なことであり修行者が覚えておくべきことです。多くの修行者は息を吸ったり吐いたりしているのは「私」であると考えてアーナーパーナ(呼吸を対象にした瞑想)にふけっているからです。

人格ないし「私」、「自我」が少し減るとサッカーヤディッティ(有身見)が少し取り除かれます。これが可能になるのはサンマーディッティ(正見)を中心に据えて集中的に修行した時だけです。

ここで言っておかなければならないのは、ディッティ(見)を減らす際にリーダーとなるのはサンマーディッティ(正見)でありサマーディ(集中)は心を一点に集中させ正見を補助する立場にあるということです。

瞑想はサンマーサマーディ(正定)ないし集中によって導かれるものではありません。サンマーディッテイ(正見)とサンマーサンカッパ(正思惟)が先頭に立ち、サンマーヴァーヤーマ(正精進)、サンマーサティ(正念)、サンマーサマーディ(正定)が続きます。

「私」、「自我」、「私に」、「私のもの」といった概念がある時はサッカーヤディッティ(有身見)が前面に出ています。意識、ヴェーダナー(受:苦、楽、不苦不楽の感受)、サンカーラ(行:心の衝動)が生じた時は常にそれがただの意識であり「私」、「自我」ではないということを理解しておかなければなりません。この段階に達した修行者は一時的にサッカーヤディッティ(有身見)が取り除かれていると言えます。ここに書いたことを読むのは簡単ですが実践するのはそれほど簡単ではありません。集中的に瞑想している時でも内語でのラベリングが落ちてしまうことも少なくないでしょう。内語でのラベリングが落ちれば落ちるほどディッティ(見)を根絶するのにより多くの時間を要することになります。

内語でのラベリングが途切れなくなればなるほど認知はより明確になり、(邪見を取り除くという)目的を遂げるのに要する時間は短くなります。修行者は意識、ヴェーダナー(受)、サンカーラ(行)が次から次へと順次連続して生じていることを観察し、カンダ(五蘊:心と身体の集合)についての洞察の智慧を開発しなければなりません。

これはディッティ(見)を取り除くための瞑想と呼ばれます。アニッチャ(無常)、ドゥッカ(苦)、アナッター(無我)、すなわちカンダ(五蘊)の生滅を対象に瞑想するアヌパッサナー(随観)にはまだ至っていません。

この段階はナーマパリッチェーダニャーナ(名分離智*)と呼ばれ、これが完全に理解できると次のより高い段階へと進んでいきます。それはアニッチャーヌパッサナー(無常随観)であり、このあとの章で取り上げたいと思います。

<訳者脚注>
原典ではこうなっていますがナーマルーパパリッチェーダニャーナ(名色分離智)のことだと思います。

-十二因縁・縁起