十二因縁・縁起

第十六章

心随観(チッターヌパッサナー)の大切さ

心随観については増支部経典の中で詳しく説明されており、以下のように細かく示されています。

1、「教え導かれ良く開発された心ほど従順で柔軟な法を私は知りません」とブッダは説かれました。
2、「教え導かれ良く開発された心ほど容易に順応しうる法を私は知りません」とブッダは説かれました。
3、「教え導かれ良く開発された心ほど大きな利益と利得をもたらす法を私は知りません」とブッダは説かれました。
4、「教え導かれ良く開発された心ほど有益な法を私は知りません」とブッダは説かれました。
5、「教え導かれ良く開発された心ほど幸福と楽しみを与えてくれる法を私は知りません」とブッダは説かれました。

教え導かれていない心、開発されていない心の結果はその反対であると言外に示されていることが分かるかと思います。

ダンマパダ(法句経)の中でブッダは説かれています。

マノー プッバンガマー ダンマ
マノー セッター マノー マヤー
マナサーチェー ペドゥッテーナ
バーサティヴァー カローティヴァー
タトーナン ドゥッカ マンヴェーティ
チャッカンヴァ ヴァハトー パダン

もう一つの偈もあります

チッテーナ ニヤテー ローコー
チッテーナ パリカッサティ
チッテーナ エーカダンマッサ
サッベーヴァ ヴァサ マンヴァグ

意味は次のようになります。

心は全ての行為の先駆者であり、全ての現象に先行します。身体的行為であろうと精神的行為であろうと心が協同ないし協調しなければ為すことができません。善行為であれ悪行為であれ、心が大きな役割を果たします。どのような行為も最初にそれを考えなければ不可能です。思考は心にのみ生じるのです。心がコントロールされれば身体もコントロールされます。心がコントロールを失って勝手気ままに振る舞えば身体の行為は自制を失い、思考や感情を無制限に表現することになります。
このように心は全ての中枢であり、私たちの全ての行動をコントロールします。

「自我」、「私」、「個人」といった邪見は心に宿ります。心は有身見が現れ増大する場所なのです。「私」、「自我」という妄想が心をあやつる力となり、身体の行為、言葉の行為、精神的行為はどのようなものであれ心の直接の結果として生じます。心を曇らせるのはこの「個人」、「自我」ないし「有身見」です。さらに注釈書にはアヌパッサナー(随観)の観点から次のように書かれています。「ディッティ チャリタッサピ マンダッサ ナーティパベーダガタン チッターヌパッサナー サティパッターナン ヴィシュディマッゴー(邪見に心が傾きがちで、知的な精進が足りない比丘が道を悟るためには簡単で仰々しくなく定型化された心随観(チッターヌパッサナー)が適しています。)」三蔵経典に熟達していた故モゴクセヤドーはパーリ経典に基づいてそれをくまなくチェックし、経典と注釈書に矛盾がないことを確認してからとても単純で仰々しくない心随観(チッターヌパッサナー)を定型化しました。これは今日の瞑想者に最も適していると考えられています。心随観が強調されていますがもちろん他の三つの随観を無視して良いというわけではありません。これは新鮮なライムジュース、砂糖、塩、水の全てが同じように成分として含まれているシロップのようなものです。一つの随観を実践する場合、他の三つも含まれます。最初の随観ほど顕著で明白ではないだけです。四つの随観は共存し、共に生じ、同調して生滅するサンパユッタダンマ(相応法)です。

心随感(チッターヌパッサナー)に話を戻しましょう。サチッタパリヤーヤ(自心法門)経でサーリプッタ長老は説かれました。他人の心は読むのは大変なことで、良い場合も悪い場合もあります。しかし自分自身の心を読むのは決して悪いことではありません。自分の心に生じる物事を知るのは大変容易だからです。瞑想者が理解すべき大切なことは自分の心を観察するのはとても易しいということです。例えば欲の心が生じたら心に欲の心が生じていると簡単にわかります。怒りの心、無知な心、嫉妬・物惜しみの心が生じたらすぐに分かります。またそれが消えたら消えたと分かります。

ミャンマーでは仏教徒の多くがヴィンニャーナ(識)は一つの生存から次の生存へと移動するないし生まれ変わるという誤った見解、正しくない印象を持っていると言っていいかと思います。多くの人々が、魂が存在するという誤った考えをもっているように見受けます。中には死に際して魂が身体から離れるとまで言う人もいます。蚊のサナギが抜け殻にしがみついて離れないように、新たな住みかとなる身体がみつかるまで魂が死体にとどまると言う人もいます。このような誤った見解は心に深く根差し、前の世代から受け継がれたものです。魂の移動や生存から他の生存への生まれ変わりを信じることは邪見以外の何物でもありません。前に述べたように、このような誤った見解を持ち、捨てられないのは、ヴィンニャーナ(識)は継続し、永遠で、朽ち果てるのは身体だけである、という信念が原因です。

そのような人たちはまだ十二因縁の正しい知識を持っていません。十二因縁を正しく理解すればヴィンニャーナ(識)もまた無常で果てしなく生滅を繰り返しているということが分かります。ヴィンニャーナ(識)は同じ場所、同じ時間に起こり、生じたところから1インチも動くことはありません。同じヴィンニャーナ(識)が二つの瞬間にわたって存在することもありません。

モゴクセヤドーは心の随観(チッターヌパッサナー)を強調されましたが、その主な目的はヴィンニャーナ(識)に関して仏教徒の心の奥底に長く根差した邪見を取り除くことにあります。

<脚注>
故モゴクセヤドーは衆生のことを心から哀れんでおられました。人々が悲惨で苦しみに満ちた下層世界(ヴィニパタバヤ)に落ちないようにと考えて邪見を取り除くことをこれほどまでに強調されたのです。聖者の第一段階、預流果に悟るには邪見を根絶することが絶対に必要であると説かれました。邪見が宿り、しがみつくのは心(チッタ)です。ですから心随観を強調されたのです。

-十二因縁・縁起