十二因縁・縁起

第十五章

ヴィパッサナー瞑想

念処経(サティパッターナスッタ)は仏教徒の世界で広く知られている経典です。念処(サティパッターナ)には四つあり、これは仏塔へと向かう四つの階段のようなものです。どの階段を昇っても仏塔へ至ることができます。その四つとは

身随観(カーヤーヌパッサナー):色(ルーパ、身体の構成要素)を対象にした瞑想
受随観(ヴェーダナーヌパッサナー):感覚、感受を対象にした瞑想
心随観(チッターヌパッサナー):心や意識を対象にした瞑想
法随観(ダンマーヌパッサナー):真理を対象にした瞑想

大切なことは、例えば身随観を行うとしても残りの三つの随観を除外するわけではないということです。違いがあるとすればどこに力点を置くか、何が優勢か、何を好みとするかということだけです。また念処経の全ての章の後ろから二番目に「サムダヤ ダンマーヌパッスィヴァー ヴィハラティ、ヴァヤ ダンマーヌパッスィヴァー ヴィハラティ、サムダヤヴァヤ ダンマーヌパッスィヴァー ヴィハラティ(生起の法を観察しながら住する、あるいは消滅の法を観察しながら住する、あるいは生起・消滅の法を観察しながら住する)」という文章が書かれていることに注意しなければなりません。これはヴィパッサナー瞑想での大事な要素となっており、この三つの点を対象に瞑想するまでは、別の言い方をすればこの三つの点を対象に瞑想するのでなければ、いつまでたっても単なる念処(サティパッターナ)すなわちただの「気づき」に止まり、進歩がありません。ヴィパッサナーの段階へと修行が進むことはありません。気高い志しと誠実さにもかかわらず気づきないし心の一点集中(サマーディ)の段階で立ち往生している、それが一般的な瞑想者ではないかと思います。もちろんサマーディを確立する段階までは気づきも一点集中も必要でありそれについては疑いの余地はありません。

さらに同じ念処経の全ての章の最後に「アッティ カー ヨーティヴァーパナッサ サティ パッチュッパッティター ホーティ(瞑想者には息の出入りの対する気づきのみがある)」と書かれています。また「ヤーヴァデーヴァナー ナマッターヤ パティサティマッターヤ アニッスィトーサ ヴィハラティ(この瞑想者には徐々に洞察が開発されてきている)」とも書かれています。この時点で瞑想者はヴィパッサナーの段階に達しており、そのためカーヤ(身体)、ヴェーダナー(感受)、チッタ(心)、ダンマ(法)を自己とみなすことはありません。「私は瞑想している、瞑想しているのは私、私の集中は大変良い、息の出入りに対する私の気づきは大変満足できるものである」などと考えることもありません。瞑想者はカーヤ(身体)、ヴェーダナー(感受)、サンニャー(想)、サンカーラ(行)、ヴィンニャーナ(識)を私とみなして執着したり、私のカーヤ(身体)、私のヴェーダナー(感受)、私のチッタ(心)とみなしたりすることはありません。これこそがカーヤーヌパッサナー(身随観)の瞑想をするときの正しいやりかたです。

今日行われているヴィパッサナー瞑想を丹念に調べ尽くしてみれば大部分の瞑想者はまだ修行の半ばにしか達していないと言ってもよいかと思いますし、偏見にはならないでしょう。

なぜならサティパッターナ(念処)の最も大事な点、すなわち「サムダヤヴァヤ ダンマーヌパッスィヴァー ヴィハラティ(生滅の法を観察して住する)」ということが見過ごされているからです。本来はこれが修行の中核なのです。

サティパッターナ(念処)

故モゴクセヤドーによればサティパッターナ(念処)は三つの部分に分かれるとされています。

1、サティパッターナ(念処)(気づき)
2、サティパッターナバーヴァナー(念処の修習)(生滅を対象とした瞑想)
3、サティパッターナガーミニパティパダー(念処へ向かう道)(サンカーラ(行)の止滅ないし生滅の止滅へと至る道)

分かりやすく言い換えると

1、与えられた対象すなわち入息、出息に心を集中させ固定すること、身体や心の動きにラベリングすることです。これがサティパッターナ(念処)と呼ばれています。
2、ルーパ(色)、ヴェーダナー(感受)、チッタ(心)、ダンマ(法)を対象に瞑想し、これらが生起してはただちに消滅する様子を瞑想すること(サムダヤヴァヤ ダンマーヌパッスィヴァー ヴィハラティ)、それがサティパッターナバーヴァナー(念処の修習)です。
3、条件付けられた現象すなわちカンダ(五蘊)の生滅を嫌悪する智慧で、サティパッターナガーミニパティパダー(念処へ向かう道)と呼ばれます。サンカーラ(行)ないし生滅の停止・止滅へと至る道です。アヌッサティ(随念)はサマタの範疇に入り、アヌパッサナー(随観)がヴィパッサナーであるということに注意してください。カンダ(五蘊)の生滅を無常、苦、無我とみる智慧が現れるまで、あるいはそれが現れない限り真のヴィパッサナーにはなりません。

ブッダは遊行者(パリッバージャカ)ススィマに言われました。「ススィマモッゴーヴァ パランヴァー ナサマーディ ニサンドー ナサマーキニサンソー ナサマーディ ニッパティ(ススィマよ、サマーディでは道果を悟り、道果を得ることはできません。ヴィパッサナーによって道果を悟り、道果を得ることができるのです。ヴィパッサナーのみが実を結び、必要な結果をもたらし、それによって道果を得ることができるのです。)」

ブッダはまた言われました。「プッベーコー ススィマ ダンマティティニャーナン パッチャー ニッビダニャーナン(ススィマよ、生命の真実の姿、常に生滅を繰り返す生命存在の本質を見抜く洞察の智慧(ヤターブータニャーナ)がまず生じます。次いで厭離の智慧(ニッビダーニャーナ)が生じます。言い換えれば、瞑想者はまず生滅する現象は苦しみ以外の何物でもないことを悟ります。次いで条件に左右される現象は不快で、嫌悪を催させ、望ましくないものであるという智慧が生じます。

この二つの洞察の段階を経て最終的な悟りを得ることが出来ると、ブッダははっきりと説かれたのです。

また初転法輪経では真理の智慧(サッチャニャーナ)、所作の知恵(キッチャニャーナ)、善の智慧(カタニャーナ)の三段階の智慧により悟りを得ることができると説かれました。

したがって意欲的な瞑想者は長くて退屈な道をたどることなくブッダが示された近道を試してみることをお勧めします。

<脚注>
仏教教義の再生は生まれ変わりや魂の移動とは全く異なるものであることを十分に学ぶ必要があります。仏教は神により造られあるいはブラフマンから派生し死後に他の体へと移動する永遠の魂の存在を完全に否定しています。

-十二因縁・縁起