十二因縁・縁起

ヤマカスッタ:サンユッタニカーヤ(相応部経典)

ブッダがジェータワナ僧院にご滞在されていた時、ヤマカという名の比丘がいました。彼は阿羅漢が死んでも何も起こらず、ただ消え去り、忘れ去られるだけだと考えました。このように理解し、信じ込み、他の比丘たちに自分の考えを広めました。これを聞いた比丘たちはブッダの教えと異なり、教義に合わないことを口にしないようにと忠告しました。ヤマカは、偉大な師であるブッダの教えを冒涜する不適切な見解を広め続けました。ヤマカが恐れを知らぬ独自の教義を広めることを誰も止めることができず、比丘たちはサーリプッタ尊者のもとへ赴いてこの件を告げました。これを聞いた尊者は深い哀れみからヤマカの所へ足を運び、彼がブッダの教えに背く見解を広めているという噂の真偽を確かめました。ヤマカが事実であることを認めるとサーリプッタは尋ねました。「ヤマカよ、阿羅漢が死んでも何も起こらず、ただ消え去り、忘れ去られるだけだ、という誤った見方をしているというのは本当ですか。」

ヤマカは頷きました。尊者は再び尋ねました。「ヤマカよ、これについてどのように考えますか。答えたいように答えてください。ルーパ(色)は恒久で、長続きし、永遠でしょうか。」
「そうではありません、尊師。」
「ヴェーダナー(受)は恒久で、長続きし、永遠でしょうか。」
「そうではありません、尊師。」
「サンニャー(想)は恒久で、長続きし、永遠でしょうか。」
「そうではありません、尊師。」
「サンカーラ(行)は恒久で、長続きし、永遠でしょうか。」
「そうではありません、尊師。」
「ヴィンニャーナ(識)は恒久で、長続きし、永遠でしょうか。」
「そうではありません、尊師。」
「それではヤマカよ。ルーパ(色)を恒久で永遠と見なしてはなりません。同様にヴェーダナー(受)、サンニャー(想)、サンカーラ(行)、ヴィンニャーナ(識)も恒久ではなく、永遠ではないとみなすべきです。」
「それではヤマカよ、質問します。答えたいように答えてください。」
「ルーパ(色)は阿羅漢(アラハット、サッタ)でしょうか。」「いいえ、尊師。」
「ヴェーダナー(受)、サンニャー(想)、サンカーラ(行)、ヴィンニャーナ(識)は阿羅漢(アラハット、サッタ)でしょうか。」「いいえ、尊師。」
「五蘊(パンチャカンダ)は阿羅漢(アラハット、サッタ)でしょうか。」「いいえ、尊師。」
「ではヤマカよ、五蘊(パンチャカンダ)を除いて阿羅漢(アラハット、サッタ)とみなせるものはありますか。」「いいえ、尊師。」
「ではヤマカよ、ヴェーダナー(受)を除いて阿羅漢(アラハット、サッタ)とみなせるものはありますか。」「いいえ、尊師。」
「ではヤマカよ、サンニャー(想)、サンカーラ(行)を除いて阿羅漢(アラハット、サッタ)とみなせるものはありますか。」「いいえ、尊師。」
「ではヤマカよ、ヴィンニャーナ(識)を除いて阿羅漢(アラハット、サッタ)とみなせるものはありますか。」「いいえ、尊師。」

「そうであればヤマカよ、偉大なる師ブッダは、一切のアーサヴァ(煩悩)を捨て去り根絶やしにした阿羅漢が死んでも何も起こらずただ消え去り忘れ去られるだけだ、と教えられたと言うのは正しく、適切なことでしょうか。」「いいえ、尊師、私がそのようなことを口にするのは正しくなく、適切ではありません。」

「それでは阿羅漢が死んだらどうなるかと聞かれたらどう答えますか。」
「尊師よ、私は次のように答えます。ルーパ(色)は永続せず、一時的で、変化し、永遠ではありません、ヴェーダナー(受)、サンニャー(想)、サンカーラ(行)も永続せず、一時的で、変化し、永遠ではありません、ヴィンニャーナ(識)は永続せず、一時的で、変化し、永遠ではありません、パンチャカンダ(五蘊)は永続せず、一時的で、変化し、永遠ではありません。」

尊者は言いました。「よろしい、ヤマカよ。そなたは今正見を得て、物事をありのままに見ています。」

ミッチャーディッティ(邪見)が有る限り、二つの両極端な誤った見解が生じます。一つは阿羅漢を人格とみなす見解でサッカーヤディッティ(有身見)と呼ばれます。もう一つは阿羅漢が死ぬと何も起こらずただ消え去り、忘れ去られるだけであるという誤った見解で、ウッチェーダディッティ(断見)と呼ばれます。この二つの見解のためヤマカは涅槃を虚無とみなしたのです。

このようにサッカーヤディッティ(有身見)があると涅槃を理解することはできないと言えます。阿羅漢が死んでも何も残らず、何も起きないという見解が行き着く所は虚無的な邪見(ウッチェーダディッティ:断見)です。涅槃を絶滅とみなし、空虚な状態とする見解です。

有身見(サッカーヤディッテイ)があるのは大変恐ろしいことです。どんなに努力を重ねても、どんなに厳しくヴィパッサナー瞑想を続けても、最終的な解放を実現することはできないからです。

そのような誤った見解は十二因縁の教義についての理解や知識がない所にはびこります。

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