十二因縁・縁起

第十二章

パティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)を逆向きにたどる

ヴィパッシーブッダは覚者となられる前、菩薩(正覚を得る前のブッダ)として人間たちのひどい苦しみに深い関心を寄せていました。生、老、病、死の過程を無限に繰り返す全ての生命の苦しみ、その根本原因は何なのか、そしてどうしたら生命を生、老、病、死から解放させる智慧を得ることができるのか、賢明に考えました。

終わりの無い輪廻を目にした菩薩は、いつか洞察の智慧を得て、人々が繰り返す生、老、病、死の連鎖に終止符を打つことを請い願い、その日を待ちました。

菩薩はなぜ誕生、老化、死が無限に繰り返されるのか系統的に探求されました。

回顧的な探求の後、徐々に瞑想が力を強め、ついに無明(アヴィッジャー)が犯人であり苦しみの根本原因になっているという結論に達しました。菩薩は誕生、老化、死から始まる逆向きの深い考察を何度か繰り返しました。そしてこんどは最初から、つまりアヴィッジャー(無明)から通常の順で考察しました。そしてついに洞察の智慧がひらめき全てのキレーサ(煩悩)を粉砕し、アーサヴァ(漏、煩悩)を根絶してパティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)の鎖を断ち切りました。最後に至高の悟りを得ました。

同じようにしてゴータマブッダも正覚者になる前、菩薩だった時に、ジャーティ(生)、ジャラー(老)、マラナ(死)から生じる終わりの無い人間の苦しみに深い関心をもちました。そして人間の苦しみ、すなわち際限なく続く誕生、老化、病気、死の過程の根本原因について深く考察しました。菩薩はついに洞察の智慧を得てパティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)の全過程を解明し、全てのアーサヴァ(漏、煩悩)、アヌサヤ(随眠煩悩)を駆逐して、最後には至高の覚りを得ました。

ブッダたちがこの世に現れようが現れるまいが、縁起の法則、パティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)は常に存在しています。しかし、ジャーティ(生)、ジャラー(老)、マラナ(死)とはこれとこれ、カンマバヴァ(業有)、ウパーダーナ(取)、タンハー(渇愛)、ヴェーダナー(受)パッサ(触)とはこれとこれなどと、その教義の詳細な説明がなされるのはブッダが現れた時だけです。ブッダが説明された教義の核心は、次のようになります。これがあるからそれが生じる、これが生じるからそれが生じる、これがなければそれは生じない、ということです。

図をご覧ください。セクションIVにジャーティ(生)があります。ジャラー(老)、マラナ(死)は原因がなければ生じません。ジャーティ(生)が原因で、ジャラー(老)、マラナ(死)が結果です。ジャーティ(生)こそ忌み嫌うべきです。老化、病気、死は誕生の日から誰にでもついてまわります。ですから誰もが日々、月々、年々年老いていきます。老化により若さ、若い容姿、若い性質が失われ、白髪となり、耳は聞こえなくなり、視力は衰え、物覚えが悪くなり、歯がなくなって堅いものが噛めなくなり、助けを借りなければ動けなくなります。最悪なのは年をとるにつれて身体が弱って、尿失禁、便失禁を呈するようになり、身近な家族や近親者からも蔑まれ、いやがられるようになることです。年をとり、病気になり、身体が衰え、死をむかえるのは今世だけの話ではありません。
これらは輪廻の始まりからずっとついてきた不可分の仲間なのです。ですから今こそジャーティ(生)、ジャラー(老)、マラナ(死)とのつながりを断ち切る方法をみつけてはどうでしょうか。忌み嫌うべき老化、病気、死の魔の手から逃れる決断をするべきです。この点を良く考えてみましょう。年をとったら私たちは次にどこへ向かうのでしょうか。毎秒、毎分、死に向かっています。死というゴールに向かって休む事なく突き進んでいるのです。「マラナンピドゥッカサッチャ」と説かれていますが、これは「死は苦しみである」という意味です。死よりひどい苦しみはありません。想像してみてください。私たちは老化に直面していますが、遅かれ早かれ死に直面する運命にあります。そしてそれはいついかなる時でも起こり得ます。死がどこからやって来て私たちをさらっていくのか全く予測できません。

いまだかつて死からの隠れ家を見つけた人はいるでしょうか。死王に賄賂を送り、ローバ(渇望)、ドーサ(憎悪)、マーナ(自惚れ)に際限なくふけることができた人がいるでしょうか。死を引き伸ばしてもらうことは可能でしょうか。私たちがローバ(渇望)、ドーサ(憎悪)、マーナ(自惚れ)に打ちのめされてしまうのはそのためでしょうか。私たちは今こそ自分自身で検証するべきです。

誰もが四種類の殺人者とともに生きています。一番目の殺人者、パタヴィ(地要素)は私たちを待ち構えています。パタヴィに過不足があれば死は確実です。次の殺人者アーポー(水要素)は私たちに手を下すチャンスを狙っています。アーポーが過剰になれば動きや排尿が過剰になりついには死に至ります。三番目の殺人者ヴァーヨー(風要素)も私たちに襲いかかろうと待ち構えています。テーヨー(火要素)も同じです。体温が異常に上昇すると錯乱状態となり、親族は脅え、ついには死を向かえます。この四つの殺人者の他にも五蘊という殺人者がいます。かつてラーダという比丘がマーラ(死)の意味をブッダに尋ねたことがあります。「ラーダよ、ルーパ(色)がマーラです、ヴェーダナー(受)がマーラです、サンニャー(想)がマーラです、サンカーラ(行)がマーラです、ヴィンニャーナ(識)がマーラです。」とブッダは答えました。生命は全て私たちの命を奪うチャンスを待つこうした殺人者とともに暮らしているのです。

最初の四つの殺人者(地水火風)であれ、次の五つの殺人者(色受想行識)であれ、その犠牲者になったら、いやでもそこから逃れるすべはありません。死の床を囲む妻、子供、親族もなす術はありません。もう一度図を見てみましょう。

「ジャーティ パッチャヤー ジャラー マラナ:ジャーティ(生)が原因となってジャラー(老)、マラナ(死)が生じます」とあるようにジャーティ(生)は大変恐ろしい相手です。ここで言うジャーティ(生)は人間、神々、梵天を含む全ての生命の誕生を意味します。

初転法輪経に「ジャーティピドゥッカ」とありますが、人間であれ神々であれ梵天であれジャーティ(生)はそれ自体がドゥッカ(苦)であり、サッチャ(真理)とともにあり、ドゥッカサッチャ(苦諦)に直面します。

パティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)についての無知が原因でほとんどの人たちは共通の誤った考えに陥っています。

いわゆる世界の君主、天界の王の栄華などという表面的な幻想に惑わされた無知な俗世間の人々は布施をするたびに世界の君主、神々の王、梵天といった中身の無い栄光を繰り返し切望し、祈ります。

パティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)によれば、世界の君主や天界の王になったとしてもそれはドゥッカサッチャ(苦諦)であり監獄に入ったようなものとされています。ブッダは説かれました。「人間であろうと、神であろうと、梵天であろうとただの囚人のようなものです」

こうした恩恵を求めて祈ることは自分を監獄に入れるように祈ることと同じです。いわゆるこうした生命存在としての栄光は人間であれ、神であれ、梵天であれ、まがいものであり、魅力的にみえても幻想に過ぎません。

ジャーティ(生)を求めて祈ることは断崖絶壁を真っ逆さまに落ちることを望むようなものです。

ジャーティ(生)は再生を意味します。母親の子宮ほど苦しく居心地が悪い所はありません。人間は記憶力が弱いため思い出すことができないのです。極めて窮屈で不自由な空間で尿と糞にまみれて九カ月も過ごすのは悲惨な苦しみです。転輪王(世界の君主)であろうが天界の王であろうが出発点は必ずジャーティ(生)です。だから新たなジャーティ(生)を求めて祈りを捧げるのはドゥッカサッチャ(苦諦)を求めて祈ることになります。

まず第一に、五蘊という重荷への嫌気・忌避・嫌悪、そして第二にジャーティ(生)・ジャラー(老)・マラナ(死)ないしパティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)のサンサーラ(輪廻)から解放されたいという思い、布施や徳行はこの二つを理由にして行うべきであると故モゴクセヤドーは教えられました。

(脚注)モゴクセヤドーはダーナ(布施)を奨励されていました。

ブッダはアーナンダに言いました。「アーナンダよ、全ての誤りの中で、五蘊を捨てた後に新たな五蘊を得ることが最悪の誤りです。」

新しい五蘊とは新たなジャーティ(生)を得ることであり、ジャーティ(生)を得るということはドゥッカサッチャ(苦諦)を得ることです。どのようなものであれ五蘊を求めて祈るのは、老、病、死を求めて祈ることです。どのような生存もジャラー(老)、マラナ(死)にさらされる定めにあります。ある人はさらに一歩進んで世界の君主、天界の王といった高い地位を楽しみたいと祈ります。それは老、病、死の苦しみを繰り返し、繰り返し受けることを意味します。

これがパティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)の知識をもたず、それに精通していない人たちのやりかたです。

ジャーティ(生)はひとりでに、あるいは偶然に生じるのでしょうか、あるいは何か根本的な原因があるのでしょうか。そうです。根本原因はあります。根本原因となるカンマバヴァ(業有)はジャーティ(生)よりも恐ろしいのです。
セクションIIIとセクションIV、すなわち将来の因果関係を結び付けるからです。言い換えればカンマバヴァ(業有)が新たな生存、ジャーティ(生)の原因となり、ジャーティ(生)は前の章で詳しく説明したように苦しみの始まりだからです。カンマバヴァ(業有)はパティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)の真ん中で前後を結び付けます。カンマバヴァ(業有)とはカーヤカンマ(身業)、ヴァチーカンマ(語業)、マノーカンマ(意業)(身体、口、心の行為)あるいはプンニャービサンカーラ(現福行)、アプンニャービサンカーラ(非福行)、アーナンジャービサンカーラ(不動行)に他なりません。

パティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)では過去に為した行為をサンカーラ(行)、現在行っている行為をカンマバヴァ(業有)と読んでいます。用語は異なりますが同じものです。

ここで少し考えて見ましょう。私たちは意図的であろうがなかろうが朝起きてから寝るまで一日中カーヤカンマ(身業)、ヴァチーカンマ(語業)、マノーカンマ(意業)を行っています。ブッダは説かれました。「この世で行う行為は善いものであれ善くないものであれ、来世で結果を出します。」言い換えれば私たちは将来の生存での運命を自ら形作っていると言えます。

十二因縁をひとつ前に戻ってカンマバヴァ(業有)が独自に生じるのか、それとも何かの原因があって生じるのか考えて見ましょう。「ウパーダーナ パッチャヤー カンマバヴォー」、ウパーダーナ(取)が原因となってカンマバヴァ(業有)が生じます。すなわちウパーダーナ(執着ないし強烈な欲望)のためにカーヤカンマ(身業)、ヴァチーカンマ(語業)、マノーカンマ(意業)が為されるのです。パティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)ないしパティサンビダマッガ(無碍解道)によればウパーダーナ(取)はサムダヤサッチャー(集諦)で、カンマバヴァ(業有)はドゥッカサッチャー(苦諦)です。さらにもうひとつ戻りウパーダーナ(有)の原因をみると、犯人であるタンハー(渇愛)が現れます。「タンハー パッチャヤー ウパーダーナ(タンハーによりウパーダーナが生じる)」と説かれています。タンハー(渇愛)がより強まるとウパーダーナという形をとります。タンハー(渇愛)はウパーダーナ(取)の原因ですのでウパーダーナ(取)よりも恐ろしいのです。

夜明けから夜中まで、あるいは一日中人々はある場所から別の場所へ、北から南へ、東から西へ、ある町から他の町へ、ある国から他の国へ、ある大陸から他の大陸へ、ある地域から他の地域へと、様々な交通手段、乗り物、汽船、航空機を使って言ったり来たりしています。こうした旅、旅行、空の旅、船の旅はほとんど全てがタンハー(渇愛、貪欲)を原因としてあるいはタンハー(渇愛、貪欲)に促されたものです。人々はタンハー(渇愛、貪欲)の奴隷となり、あらゆる季節にあらゆる方向に向かって様々な目的、仕事、取引のため出向きます。

タンハー(渇愛)に促されたらそれに逆らうことはできません。タンハー(渇愛)の奴隷になったら、深夜であろうが、雨であろうが、盗人が横行する場所であろうが、戦争地帯であろうが、差し迫る危険を顧みずどのような用事でもでかけます。奴隷は主人であるタンハー(渇愛)にノーと言えるでしょうか。不可能です。タンハー(渇愛)はとても力強く、影響が大きく、衝動的であり、小さな赤ん坊でも寝転がっておもちゃを取ろうとします。老人もタンハーの影響に屈します。

これまでお話したことを私たち自身に起こっていることと比べてみると良いと思います。さらに一段階さかのぼって、タンハー(渇愛)が独自に生じるのか、何かを原因として生じるのかをみてみましょう。「ヴェーダナー パッチャヤー タンハー(ヴェーダナーが原因となりタンハーが生じる)」とあるようにヴェーダナー(受)がタンハー(渇愛)の原因であり、より有害です。図をご覧ください。セクションIIとセクションIIIはヴェーダナー(受)とタンハー(渇愛)で結ばれています。瞑想者はこの連結点でヴェーダナー(受)とタンハー(渇愛)がつながらないようにしなければなりません。言い換えればマッガンガ(道支)(パンチャンギカマッガ:五支の道)がヴェーダナー(受)とタンハー(渇愛)の間に入らなければなりません。この結合点で瞑想実践することによりアヴィッジャー(無明)をヴィッジャー(明智)にする、すなわち「ヴィッジャーウダパーディ(明智を生じさせる)」にしなければなりません。

ヴェーダナー パッチャヤー タンハーをヴェーダナー パッチャヤー パンニャーに変える方法は次の章で説明致します。

-十二因縁・縁起