パティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)の道は盲の道
四聖諦についての無知がアヴィッジャー(無明)です。そして見解がアヴィッジャー(無明)に覆われた人をパーリ語でプトゥッジャーナ(凡夫:教えが分からない俗世間の人)と呼びます。
俗世間の人はアンダ(盲目)とカラヤーナ(善)の二つに分けられます。サッチャ(真理)が分からない人はアンダプトゥッジャーナ(盲目の凡夫)と呼ばれ、いつも落ち着きがなく、あちこちとさ迷い歩きます。
盲目の凡夫はサッチャ(真理)が分かりません。暗闇にいるようなもので、物が見えません。ですから必ず落とし穴にはまります。
来世でより高い地位を得て神や梵天になりたいと思い、プンニャービサンカーラ(現福行)を為します。(これを右足で歩くと呼ぶことがあります)
また、すぐに金持ちになりたいという欲に圧倒されて自分のため、家族のためにあらゆるアプンニャービサンカーラ(非福行:非道徳的行為)を為します。これを左足で歩くということがあります。
アヴィッジャー(無明)すなわちサッチャ(真理)が分からないためにこうしたサンカーラ(行)を為します。こうした行為は盲の歩みと同じようなものです。盲とはサッチャ(真理)がわからないことであり、一方でクサラサンカーラ(善行)を為すことは両足で歩くことです。
パンチャカンダ(五蘊)がドゥッカサッチャ(苦諦)であり、卑しむべきものであり、いやなものであり、苦しみに満ちており、望ましくないものであることを完全に理解して布施するなら、それは正しい布施と言えます。カンダ(蘊)はドゥッカサッチャ(苦諦)に他ならないという智慧とともに為される布施だからです。このような布施はヴィヴァッタクサラ(還滅善:煩悩のふた覆いを晴らす善)と言われており、白黒(善悪)を混同することはありません。
来世でより良い地位を得ることを期待も望みもせず布施をするなら、それはサンサーラ(輪廻)を終わらせたい、来世でどのようなカンダ(蘊)も欲しくないという意志の現れです。これはヴィヴァッタクサラカンマ(還滅善行)でありカンマ(業)の力を断ち切ることができます。
ここで疑問が生じるかも知れません。サンサーラ(輪廻)はとてつもなく長く、ニッバーナ(涅槃)を悟る前に貧しく恵まれない生存に陥るかも知れない、だから来世でより高いデーヴァローカ(天界)に神の王子として生まれるように、あるいは世界の王になるようにと願い求める方がよいのではないかという疑問です。
ここではっきりさせておかなければならないことがあります。布施をするのは「私」であり、来世で布施による利得を得るのも同じ「私」と多くの人が信じています。そこには「私」、「自己」という概念が入り込んでおり、ディッテイ(見:誤った見解)になります。布施をする「私」と徳の恩恵を受ける「私」が同じと考えれば、それはやがてサッサタディッティ(常見:永遠に変わらないものがあるという誤った見解)につながります。読者の皆さんはこの点に十分注意してください。布施は間違いなくクサラカンマ(善業)ですが、その同じカンマ(業)に二つの要素が混入しています。利得を得たいというタンハー(渇愛)と「私」が恩恵を享受するというディッティ(アッタディッテイ、我見とサッサタディッティ、常見が混在しています)です。そのような誤った見解がはやっておりそれを取り除くのは容易なことではありません。以下に表現を変えて説明します。
布施(ダーナ)は間違いなくクサラカンマ(善業)、健全な行為です。そして来世でより高い地位を得たいという願望はタンハー(渇愛)です。ですからこの場合のカンマ(業)はミッサカ(混在した)カンマ(業)と呼ばれます。白いカンマ(業)と黒いカンマ(業)が混在しています。クサラカンマ(善業)、健全な行為が白で、来世でより良い地位を得たいという願望が黒いカンマ(業)です。このため混在したカンマ(業)と呼ばれます。
竜王や王宮の白象はそのようなカンマ(業)に由来すると言われています。
ですから読者の皆さんは、このような善悪が混在したカンマ(業)が望ましいものかどうか自分で決めていただきたいと思います。盲人の歩みに話を戻しましょう。盲になるというのはサッチャ(真理)がわからないということです。右足で歩くのがプンニャービサンカーラ(現福行)で、左足で歩くのがアプンニャービサンカーラ(非福行)です。右足で歩を進めれば人間ないし神のカンダ(蘊)を得ます。左足で歩けば悲惨な下層世界に落ちてドゥガッティカンダ(悪趣の蘊)を得ます。
このように盲目の凡夫(プトゥッジャーナ)は方角も分からずあちこちさ迷いどこへも到達することができません。どのような行為を行っても無知がついてまわり、再びパティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)へと導かれてしまいます。
「サンカーラ パッチャヤー ヴィンニャーナン」とはサンカーラ(行)によりヴィンニャーナ(識)が生じるという意味です。ここではヴィンニャーナ(識)はパティサンディヴィンニャーナ(結生識)につながります。全く目が見えない人はつまずき、転げ落ち、ジャーティ(生)という落とし穴にはまります。ジャーティ(生:ジャーティピドゥッカ(生は苦しみ))を得るとパティサンディ(結生、再生)が原因であらゆる苦しみを受けることになります。
生まれる前の様子を思い出せばそれが分かると思います。私たちは母親の子宮の中で九カ月もの間、尿と便にまみれ、身をかがめ、あらゆる方向から体を締め付けられ、肘をわずかでも伸ばすことができないまま過ごします。「サンカーラ パッチャヤー ヴィンニャーナン(行により識が生じる)」とは現世でのこの生存の始まりがジャーティ(生)である、という意味です。「ヴィンニャーナパッチャヤー ナーマルーパン(識により名色が生じる)」とはジャーティ(生)が原因でナーマルーパ(名色)を得るという意味です。盲の人が転げ落ち、つまずき、怪我する様子をほのめかしています。
次のように比喩的に表現することもできます。盲人が転げ落ちる時はただ落ちるのではありません。頭から真っ逆さまに落ちて怪我します。ドゥッカ(苦:苦しみと悲しみ)であるナーマ(名)という怪我、ルーパ(色)という怪我を負うという意味です。「パンチュパーダーナ カンダーピ ドゥッカ(五取蘊は苦しみである)」五蘊は全てがドゥッカサッチャ(苦諦)です。
また「ナーマルーパ パッチャヤー サラーヤタナン(名色により六処が生じる)」に沿って話を進めると、次のような比喩表現がぴったりです。怪我をするとさらに病原菌が全身に広がり、そのため目の損傷(チャッカーヤタナ:眼処)、耳の損傷(ソーターヤタナ:耳処)、鼻の損傷(ガーナーヤタナ:鼻処)、舌の損傷(ジーヴァーヤタナ:舌処)、身体の損傷(カーヤーヤタナ:身処)、心の損傷(マナーヤタナ:意処)を負います。
ブッダは宣言されました。パンチャカンダ(五蘊)は傷害であり、病であり、悪寒戦慄を催し、傷であり、刺に刺されるようなものであると。
眼があるために見るという働きが生じてしまいます。耳があるために聞くという働きが生じてしまいます。鼻があるために嗅ぐという働きが生じてしまいます。舌があるために味わうという働きが生じてしまいます。身体があるために触れるという働きが生じてしまいます。心があるために考えるという働きが生じてしまいます。アーランマナ(対象)とドゥヴァーラ(門)が出会うと、いつでもどこでもローバ(貪欲)、ドーサ(怒り)、ドーマナッサ(憂)、ソーマナッサ(喜)、ウペッカー(捨)が生じます。
盲の人が歩けば歩を誤り、つまずき、ころがり、怪我をして、病原菌が全身に広がります。そして「サラーヤタナ パッチャヤー パッソ(六処により触が生じる)」を盲人にあてはめれば、その意味は「盲目の人は刺に刺され、敗血症になり、事態がさらに悪化する」ということになります。
この場合の転倒は激しいものとなります。痛みは激烈で、大変な苦しみを味わいます。アヴィッジャー(無明)のためにこのようなひどい事態に陥ります。
アヴィッジャー(無明)が先導し、タンハー(渇愛)に付き添われた俗世間の普通の人々は、タンハー(渇愛)の赴くままにあらゆる種類の過ちをおかします。(サムダヤが原因でドゥッカが生じます)
「エーヴァメッタッサ ケーヴァラッサ ドゥッカッカンダッサ サムダヨホーティ(こうしてこのような全ての苦しみが生じる)」サンサーラ(輪廻)のプロセスの中にあるのは悲しみと苦しみの固まりだけという意味です。
盲目の人は刺に刺された結果、さらにヴェーダナー(受)にみまわれます。「パッサ パッチャヤー ヴェーダナー(触により受が生じる)」対象と感覚門、ヴィンニャーナ(識)の三つの現象が出会うといつでもどこでもヴェーダナー(受)が生じます。視覚対象を見る、音を聞く、匂いを嗅ぐ、食べ物を味わう、身体に触れる、何かを考える、こうしたことが起こるたびにヴェーダナー(受)が生じます。
私たちはあらゆるヴェーダナー(受)の生起を経験します。九十六種類の病に侵される運命にあります。図をみるとセクションII全体がドゥッカサッチャ(苦諦)であることがわかります。
ドゥッカサッチャ(苦諦)の本質を洞察することができるのはアヴィッジャー(無明)がヴィッジャー(明智)になった時だけです。ですから「チャックン ウダパーディ、ニャーナン ウダパーディ、 ヴィッジャー ウダパーデイ(正しい見解が生まれ、智慧が生まれ、明知が生まれる)」と言われています。
盲人の話に戻りましょう。痛みを和らげ、傷を癒すために薬を探します。必死になって根治薬を探そうとしますが適切な薬に出会うことはまず期待できません。アヴィッジャー(無明)に覆われ、サッチャ(真理)がわからない人は正しい薬(真実)を得ることができません。
輪廻の旅全体を通じて根治薬を探し続けてきましたが、現世でも、過去生でも結果を得ることはできず失敗に終わっています。
私たちはこれまでサンサーラ(輪廻)の暴流のなかで絶えず濁流に揉まれる生命存在であり続けるしかなかったのです。
ここでお話したことがサンサーラ(輪廻)の中で私たち自身に起こったことと一致するかしないか自分で確かめてください。
過去の因果関係のサムダヤ(集)により現世であらゆる苦しみが生じています。これこそが「苦しみの原因」と「苦しみ」の結合です。
たとえばスカヴェーダナー(楽受)があったとします。家族が良い境遇に恵まれ、収入もあり、家と車を持ったとします。現在のその状況に執着すればタンハー(渇愛)が生じます。図をご覧ください。「スカヴェーダナー パッチャヤー タンハー(楽受により渇愛が生じる)」セクションIIとIIIが再びつながります。
盲人の話に戻ります。盲人でも治療薬を探せばなんらかの薬を手にいれることはあるでしょうが、それは正しくない薬です。その薬を飲み、あるいは傷につけても良くなるどころか病状はさらに悪くなります。
パティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)には「ウパーダーナ パッチャヤー カンマバヴォー(取により業有が生じる)」とあります。執着が原因で身体の行為、口の行為、心の行為を再びおかします。布施をするたびに来世でより豊かな生命あるいは天界の王子として生まれることを切望します。それどころか息子、娘、妻、自分、そして家族全員が将来の生存で一緒に暮らせるようにと願うことさえします。
これがサッチャ(真理)がわからない普通の人々が行う正しくない行為の例です。つまずき、捻挫し、傷を負い、敗血症になり、刺に刺され、根治薬を求めますが不適切な薬しか手に入らない盲人のようなものです。
サッチャ(真理)についての智慧が欠如した輪廻の旅においては、旅行者は常に因果法則にしたがって輪廻の暴流に何度も何度ももみくちゃにされます。サンマーディッテイ(正見)、サンマーサンカッパ(正思惟)、サンマーヴァーチャー(正語)、サンマーカンマンタ(正業)、サンマーヴァーヤーマ(正精進)、サンマーサティ(正念)、サンマーサマーディ(正定)、サンマーアージーヴァ(正命)というマッガサッチャ(道諦)についての知識をほんのわずかでも持ち合わせることなく過ごしてきたことは明らかです。
真理についての説法を聞くことが出来、故モゴクセヤドーの録音をおこした書籍を読むことができる私たちは大変恵まれていると言うことができます。そのような説法からパティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)とサッチャ(真理)についてのたくさんの知識を得ることができるのです。
読者の皆さんは是非今生でサンサーラ(輪廻)の果てしない鎖から解放さるようにという強い願いを抱くべきです。サッダー(信)を持ち、サッチャ(真理)を聞く機会に恵まれ、その気になれば説法の録音を聞いたり、それを文章にした書籍を読むことができるのですから。説法を録音したテープはマンダレー、モゴク、アマラプラなどミャンマーの多くの地域、街角で手に入れることが出来ます。
繰り返しますが、モゴクセヤドーが生前示されたサッチャ(真理)とパティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)の説法の記録を十分に活用されることを強くお勧めします。
<脚注>
善い行いは常に善い結果を生みます。次の生存での繁栄やより良い地位の獲得を願うことなくダーナ(布施)、シーラ(持戒)が行われたとしても、善行はその当然の結果として良い結果をもたらします。捲かれた種を刈り取るようなものです。