順方向にみたパティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)の教え(アヌローマ)
図を参照してください。この図は故モゴクセヤドーがカンダ(蘊:集合ないし要素)の視点から考案し、作り出し、描いたものです。パティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)が、私たち自身のカンダ(蘊)の絶え間ない生滅の過程に過ぎないことを示しています。言い換えればパティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)は因果関係で生じた心と身体の現象の生滅に他なりません。
輪廻の始まりを考えることはできません。アヴィッジャー(無明)に覆い隠され、タンハー(渇愛)に夢中になり、生存から次の生存へと再生を繰り返す生命の始まりを見出すことは出来ません。一人の人間の過去生での骨を積み上げるとヴェプラ山の高さに届きます。歩いて上るには四日かかる山です。ただ一人の骨でもこのようになります。輪廻はとても長いのです。輪廻がとても長いということは苦しみもそれだけ長いということです。パティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)の連鎖もそれだけ長く続くということです。
輪廻の始まりはアヴィッジャー(無明)と言われていますが、それではアヴィッジャーとはいったい何でしょうか。
<脚注>
アヴィッジャー(無明)が生存の最初の原因であると混同しないように注意してください。
アヴィッジャー(無明)とは四つの聖なる真理(アリヤサッチャー)が分からないことです。
1、苦しみの原因(サムダヤサッチャ)がわからないこと。
2、生存は苦しみないし不満足であるという真理(ドゥッカサッチャー)がわからないこと。
3、苦しみの無い状態があるという真理(ニローダサッチャー)がわからないこと。
4、苦しみの止滅に至る道(ニローダガーミニパティパダー)がわからないこと。
具体的に示しましょう。
1、私たちは皆、金銀や他の物質的な財産を所有したいと願い、それを渇望するという癖を持っています。この渇望がドゥッカ(悲しみと苦しみ)の根本的な原因です。それが分からないことをサムダヤサッチャー(集諦)に対する無知と呼びます。
2、私たち自身のカンダ(心と身体の集合、構成要素)がまさに苦しみと悲しみの原因であるということが分からなければそれはドゥッカサッチャー(苦諦)に対する無知と呼ばれます。
3、全ての苦しみが止滅した状態、言い換えれば至高の涅槃が分からなければそれはニローダサッチャー(滅諦)に対する無知と呼ばれます。
4、聖なる八聖道が至高の涅槃へ至る道であることが分からなければそれはニローダガーミニパティパダサッチャー(道諦)に対する無知と呼ばれます。
このような無知がアヴィッジャー(無明)であり、心の行為、身体の行為、口の行為は全てこの無知から生じます。ですからブッダは「アヴィッジャー パッチャヤー サンカーラ(無明を原因として行が生じる)」と説かれました。悲しみと苦しみの根本原因を知らないので自分自身のために、自分の家族のためにあらゆる行為を為します。財を集め、あるいは高い地位を得るためにあらゆる策略を講じ、それがクサラ(善)かアクサラ(悪)か顧みることはありません。
私は合法的な取引を続けているのだから正しい生活を送っていると言うかも知れません。しかしパティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)の観点から見ればそれで輪廻の鎖を断ち切ることは出来ません。せっせとパティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)を繰り返しているだけです。私はいったいどのような罪をおかしたのかと聞かれたら、こう答えます。罪を犯したかどうかはわかりません。ただ確実に言えることはパティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)の連鎖をつなげて回転させているということです。
繰り返しますが、来世で高い次元の生存を得るために布施を行うとしたらそれがクサラカンマ(善業)であることは間違いありません。しかしいかなる徳行も無明がともなうならば、すなわちドゥッカサッチャー(苦諦)の知識なしに行うならばそれはプンニャービサンカーラ(現福行)にしかなりません。「アヴィッジャー パッチャヤー クサラサンカーラ(プンニャービ):無明を原因として善行(現福行)が生じる」。布施も持戒も神、梵天と言った高い次元の生命への再生を願うなら「アヴィッジャー パッチャヤー クサラサンカーラ」になります。一般の人は願い事の最後に、その望みがかなうようにと唱えます。たとえ願いが適って神や梵天になったとしても来世の始まりは誕生(ジャーティ)です。ジャーティ(生)はドッッカサッチャー(苦諦)に他なりません(初転法輪経)。
「サンカーラ パッチャヤー ヴィンニャーナン(行が原因となり識が生じる」(善であれ不善であれ)サンカーラ(行)が原因で再生の意識が生じます。全ての生命の始まりは再生の意識です。今まさに存在している私たちはドゥッカ(悲しみと苦しみ)以外の何物でもありません。単純で誰の眼にも明らかですが、アヴィッジャー(無明)に騙され、心が汚れているためにそれをスカ(幸福)であるとみなします。ですから修行者は布施や徳のある行為を為す時にはいつでも、「高い次元の生命への再生を切望することは望ましいことだろうか」としばし考えてみるべきです。神でも梵天でもその他どのような生命に再生してもそれはドゥッカ(苦)そのものであり、ドゥッカ(苦)以外の何物でもありません、これが苦しみを無くそうと賢明に努力している修行者への最高のアドバイスです。
「ヴィンニャーナ パッチャヤー ナーマルーパン」ジャーティ(生)を得た者はナーマルーパ(名色)も得ることになります。図のセクションIIをご覧ください。ヴィンニャーナ(識)が原因となってナーマルーパ(名色)が生じます。ヴィンニャーナ(識)に「私」、「私に」、「私のもの」があるかどうかよく調べてください。ナーマルーパ(名色)に「私」、「私に」、「私のもの」「彼」「彼女」といった人格が存在するかどうかよく調べてください。
ヴィンニャーナ(識)とはパティサンディヴィンニャーナ(結生識)であり、現在の生存の始まりです。ヴィンニャーナ(識)には「自我」、「自己」、「私」、「彼」「あなた」といったものはありません。サンカーラ(行)のただの結果です。
ナーマルーパ(名色)を注意深く検証し、隅から隅まで調べれば、そこにも「自我」、「私」、「私に」、「私のもの」「彼」といった人格はみつかりません。私の物ではないし、所有者もいません。因果法則、パティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)に基づいたただの結果なのです。
「ナーマルーパ パッチャヤー サラーヤタナン」ナーマ(名)とルーパ(色)が現れると、現象はそれで終わりません。ナーマ(名)とルーパ(色)が原因となって眼、耳、鼻、舌、身体、心が生じます。
眼は原因となる現象の結果として生じた現象です。そこには人格の要素、「自我」、「私」、「私の物」、「アッタ(我)」というものは存在しません。
鼻も同じです。鼻は原因となる現象の結果として生じた現象です。そこには人格の要素、「自我」、「私」、「私の物」、「アッタ(我)」というものは存在しません。
舌、身体、心も同じように理解することができます。
こうした感覚器官(サラーヤタナ)はサンサーラ(輪廻)の範囲を広げる六つのダンマ(法)なのです。パティッチャサムッパーダ(十二因縁)の連鎖を広げ、長引かせます。
眼はサンサーラ(輪廻)の範囲を広げます。耳、鼻、舌、身体、心も同様にサンサーラ(輪廻)の範囲を広げます。第三章を読み返してください。そして自分自身を観察し、チェックしてみてください。景色を見たり、音を聞いたり、匂いを嗅いだり、味わったり、触れたり、考えたりした時にそれだけで終わりにしていますか。例をあげましょう。美しい対象に出会った時、それを見たら見ただけで終わりにしていますか、それとも一歩進んで「私はそれが気に入った、私のものにしたい」と言いますか。私たちは見ただけでは止まりません。なんとかしてそれを手に入れようとします。これがサンサーラ(輪廻)の結合、パティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)の延長、サンサーラ(輪廻)の範囲の拡大、と呼ばれています。六処(サラーヤタナ、感覚器官)の残りも同様です。
「サラーヤタナ パッチャヤー パッソ」は眼が原因となって眼と対象の接触が生じるという意味です。耳が原因となって耳と対象の接触が生じ、鼻が原因となって鼻と対象の接触が生じ、舌が原因となって舌と対象の接触が生じ、身体が原因となって身体と対象の接触が生じ、心が原因となって思考と対象の接触が生じるのです。
「パッサ パッチャヤー ヴェーダナー」とは感覚器官と対象の接触が原因となって感受が生じるという意味です。眼触が原因となり、眼に依存してヴェーダナー(感受)が生じます。パーリ語ではチャックサンパッサジャーヴェーダナー(眼触受)と呼ばれます。眼に依存する感受をチャックサンパッサジャーヴェーダナー(眼触受)と呼ぶのです。
同様に他の感覚器官に依存して生じた感受はそれぞれソータサンパッサジャーヴェーダナー(耳触受)、ガーナサンパッサジャーヴェーダナー(鼻触受)、ジヴァーサンパッサジャーヴェーダナー(舌触受)、カーヤサンパッサジャーヴェーダナー(身触受)、マノーサンパッサジャーヴェーダナー(意触受)と呼ばれます。ヴェーダナー(感受)はスカ(楽)、ドゥッカ(苦)、ウペッカー(不苦不楽)の三種類に分かれます。あるいはスカヴェーダナー(楽受)、ドゥッカヴェーダナー(苦受)、ソーマナッサヴェーダナー(喜受)、ドーマナッサヴェーダナー(憂受)、ウペッカーヴェーダナー(不苦不楽受)の五つに分ける場合もあります。さらに細かく分ければ極めて多くの領域をカバーすることになります。しかしながら熱心な修行者は、六つの感覚門(ドゥヴァーラ)に対象が触れたりぶつかったりした時はいつでもなんらかのヴェーダナー(受)が生じているということを忘れてはなりません。ヴェーダナー(受)をわざわざ探す必要はないということは言うまでもありません。六門にパッサ(対象との接触)が生じた時にはいつでもなんらかのヴェーダナー(受)が生じているからです。
「ヴェーダナー パッチャヤー タンハー」ヴェーダナー(受)を原因としてタンハー(渇愛)が生じます。視覚対象に依存していればルーパタンハー(色愛)と呼ばれます。同様に原因が音であればサッダタンハー(声愛)、匂いや香りであればガンダタンハー(香愛)、舌であればラサタンハー(味愛)、接触であればポッタッバタンハー(触愛)、思考であればダンマタンハー(法愛)となります。
「タンハー パッチャヤー ウパーダーナ」タンハー(渇愛)を原因として貪欲、執着、とてつもない欲、あるいはより大きなタンハー(渇愛)が生じるという意味です。ウパーダーナ(取)には四つあります。カームパーダーナ(欲取:強い官能的欲望)、ディットゥパーダーナ(見取:邪険に対する強い欲望)、シーラッバトゥパーダーナ(戒禁取:誤った儀式、戒律に対する強い欲望)、そしてアッタヴァードゥパーダーナ(有身見:自己中心的な強い欲望)です。
「ウパーダーナ パッチャヤー カンマバヴォー」強い欲望、貪欲が原因となってカーヤカンマ(身業:身体の行為)、ヴァチーカンマ(語業:言葉の行為)、マノーカンマ(意業:心の行為)が生じます。この三つはどれもセクションIIIの最後の要素であるカンマバヴァと呼ばれます。セクションI、過去の原因においてはサンカーラ(行)と同義と理解するべきです。アビダンマッタササンガハではバヴァ(取)はローキクサラチッタ(世間の善心)とアクサラチッタ(不善心)からなり、二十九個あります。
「カンマバヴァー パッチャヤー ジャーティ」身体、言葉、心の行為が原因となって次の生存の始まりであるジャーティ(再生の意識)、パティサンディヴィンニャーナ(結生識)が生じます。どのようなジャーティであれパティサンディヴィンニャーナ(結生識)が始まりです。「ジャーティピドゥッカ」とブッダは説かれました。人間であろうが神であろうが、梵天であろうがジャーティ(生)はドゥッカサッチャ(苦諦)であるという意味です。この転機において修行者は次の生存でジャーティ(生)を願い、切望することがふさわしいかどうか決断するべきです。ジャーティ(生)を手に入れたとしてそれでどうしようというのでしょうか。最終的な褒賞は何なのでしょうか。答えは「ジャーティ パッチャヤー ジャラーマラナ」です。ジャーティ(生)が原因でジャラー(老)、マラナ(死)が生じる、言い換えればジャーティ(生)の後には必ず老化と死が続くことは明らかです。
もう少し分かりやすく話しましょう。ジャーティ(生)を得るとついて来るのは老化、病、悲哀、苦悶、痛み、悲泣、絶望、そしてあらゆるドゥッカ(苦)です。図をご覧ください。
これが、ブッダの教えに沿って示したパティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)の輪です。