十二因縁・縁起

第七章

ヴィパッサナー瞑想しない限り止まらないパティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)とサンサーラ(輪廻)

パティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)は常に回転しています。バヴァンガチッタ(有分心)が優勢となる睡眠中を除き、好ましいものであれ、好ましくないものであれ対象に出会うことで回転を続けます。時にはドーサ(憎悪)、時にはローバ(貪欲)、また時にはモーハ(妄想)とともに回転します。

パティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)がドーサ(憎悪)、ローバ(貪欲)、モーハ(妄想)とともに回転するとアクサラチッタ(不善心)が生じ、アプンニャービサンカーラ(非福行)にふけることになります。楽しいもの、例えば息子や娘や妻、財産や仕事に囲まれている時は、パティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)はローバ(貪欲)とともに回転します。仕事がうまくいかなかったり息子や娘が言うことをきかなかったり、いやな状況に陥ることもありますが、その場合パティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)がドーサ(憎悪)とともに回転しています。

意識することなく、それとわからずに悪事を犯したら、それはモーハ(妄想)によるパティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)の回転と呼ばれます。

クサラサンカーラ(善行)ないしプンニャービサンカーラ(現福行)についてはどうでしょうか。来世でより高い次元に生まれたいと願って徳のある行為を行うなら、それはヴィッタクサラ(財善:輪廻の中で回転する善行)と呼ばれます。ドゥッカサッチャ(苦諦)の知識を持たずに、あるいは代償を求めて徳のある行為を行ったらそれはプンニャビサンカーラ(現福行)です。

ブッダは説かれました。「比丘たちよ、智慧を欠き、アヴィッジャー(無明)が満ち溢れた者はプンニャービサンカーラ(現福行)、アプンニャービサンカーラ(非福行)、アーナンジャービサンカーラ(不動行:高位の梵天界への再生を目指したサマタ瞑想)を為します。」「比丘たちよ、アヴィッジャー(無明)を捨て去り、ヴィッジャー(明智)が生じた比丘はプンニャービサンカーラ(現福行)を為すことは決してありません。

この言葉に従えば、アヴィッジャー(無明)が無く、アヴィッジャー(無明)から解放され、アヴィッジャー(無明)を捨て去った者とは阿羅漢そのものです。そのような阿羅漢はプンニャービサンカーラ(現福行)を為すことはありませんし、その必要もありません。そして阿羅漢が何かの行為をする時はそれはだの行為であり、意味や結果を伴うことはありません(キリヤー:唯作)。

(脚注)キリヤー(唯作)はローバ(貪欲)、ドーサ(憎悪)、モーハ(妄想)を伴わないただの行為を意味します。そのような行為は業の力を作り出すことはありません。

ソーターパンナ(預流果)も、サカーダーガーミ(一来果)も、アナーガーミ(不還果)も、聖者になった後、以前に増してダーナ(布施)とシーラ(戒)に励まなければなりません。
ですから当然のことながらプトゥッジャナ(凡夫)はよりいっそう布施と持戒に勤めなければなりません。ですがダーナ(布施)とタンハー(渇愛)を混同しないように注意しなければなりません。アヴィッジャー(無明)に心を奪われないように注意しなければなりません。ダーナ(布施)はクサラ(善)かアクサラ(悪)かと聞かれたら、ダーナ(布施)はクサラ(善)であると答えるしかありません。布施をするという意志がクサラ(善)であることは疑いの余地はありません。しかし来世でより高い次元への再生を熱望するならそれタンハー(渇愛)で、従ってアクサラ(不善)になります。

例えば私が来世で利得を得るために布施をしたら、私の行為はアクサラ(不善)であるディッティ(見)の影響を強く受けそれに支配されています。ですからダーナ(布施)をタンハー(渇愛)やディッティ(見)と混同し、アヴィッジャー(無明)をはびこらせることがないようにしなければなりません。正しい布施についての知識と知性が無ければ、あるいは布施がもたらす正しい利得を理解し選ぶ能力が無ければダーナ(布施)はヴァッタダーナ(義務による布施)ないしプンヤニャービサンカーラ(現福行)となり、結果として輪廻は回り続けます。

なお、ダーナ(布施)が輪廻を引き伸ばすのではないことに注意しなければなりません。ダーナ(布施)をする際にとるべき正しい態度が分からないためにダーナ(布施)がヴィヴァッタダーナ(煩悩の覆いを広げる布施)になってしまうのです。

-十二因縁・縁起