ヴェーダナー(受)からパティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)が回転を始める仕組み
図をご覧ください。セクションIIにヴィンニャーナ(識)、ナーマルーパ(名色)、サラーヤタナ(六処)、パッサ(触)、ヴェーダナー(受)があります。
感覚門、対象、意識の三つがそろう時はいつでもパッサ(触)が生じ、そこから楽、苦、不苦不楽いずれかのヴェーダナー(受)が生じます。
例をあげてみます。きれいな花を見た時に楽しい気分になれば、楽しいという感受(ヴェーダナー)を感じています。花に対する欲望、渇望(タンハー)が生じれば必ずウパーダーナ(取:執着)が続いて生じます。ここからパティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)の回転が始まります。
パティッチャサムッパーダ(十二因縁)はウパーダーナ(取)で止まらないことに注意してください。ウパーダーナ(取)の後にカンマバヴァ(業有)が続き、その後には必ずジャーティ(再生)が生じます。図のセクションIIIとセクションIVを見るとカンマバヴァ(業有)とジャーティが連結していることがわかります。
この結合はパティッチャサムッパーダ(十二因縁)の一連の活動過程を意味します。
ブッダは説かれました。「ヴェーダナー(受)の後にタンハー(渇愛)が生じたら道果、涅槃を悟ることは決して無いと私は言います」
「ヴェーダナー(受)の後にドーサ(怒り)、ドーマナッサ(憂い)が続いたら、やはり道果、涅槃を悟ることは決してありません。」
「パティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)の過程が止まる事なく続く」とは、私たち自身の五蘊が止まることの無い輪廻の連鎖をたどるということを言外に意味します。ここで言う五蘊は体重60キロのこの身体のことではありません。伝統的な用語としての五蘊を意味します。
五蘊が意味するのは次のようなことです。対象(アーランマナ)が感覚門(ドゥヴァーラ)に入るとヴィンニャーナ(識)、言い換えればヴィンニャーナカンダ(識蘊)が生じます。パッサ(触)があるときはいつでもヴェーダナー(受)すなわちヴェーダナーカンダ(受蘊)が生じます。パッサ(触)があるときはいつでもサンニャー(想)すなわちサンニャーカンダ(想蘊)が生じます。意志を伴った行為(チェータナー)はサンカーラカンダ(行蘊)と呼ばれ、物質(ルーパ)はルーパカンダ(色蘊)と呼ばれます。ルーパカンダ(色蘊)であれ、ヴェーダナーカンダ(受蘊)であれ、サンニャーカンダ(想蘊)であれ、サンカーラカンダ(行蘊)であれ、ヴィンニャーナカンダ(識蘊)であれ、どのようなカンダ(蘊)が生じてもそれは個々のカンダ(蘊)の連鎖ないし一過程であり、パティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)に他なりません。
パティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)は、実際はパーリ三蔵経典の中にあるのではなく、ましてやそれを唱和するところにあるのでもありません。私たちの五蘊にあるのです。パティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)あるいは五蘊の連続に存在するのは悲しみと苦しみの固まりだけです。(エーヴァ メッタッサ ケーバラッサ ドゥッカッカンダッサ サムダヨホーティ)。ニダーナヴァッガサンユッタ(因縁品相応)には次のように書かれています。
「パティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)そのものの生活を送るならその人はミッチャーパティパダー(誤った道)を行くもの、と呼ばれます。ヴィパッサナー瞑想実践を行う人はサンマーパティパダー(正しい道)を行くもの、と呼ばれます。」
ですから清浄道、ヴィパッサナーの道を歩む人は、業の力ないし五蘊のつながりを断とうとしている、言い換えればパティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)を止めようとしていると断言してよいでしょう。図をご覧ください。ヴィパッサナーの実践はセクションIIIとセクションIVの結合を断ちます。言い換えればタンハー(渇愛)を消滅させて業の力が生じないようにするのです。
またヴィパッサナー瞑想はヴェーダナー パッチャヤー タンハー(受を原因として渇愛が生じる)をヴェーダナー パッチャヤー パンニャー(受を原因として智慧が生じる)に変える作業とも言えます。ヴェーダナー(受)の後に続くタンハー(渇愛)をヴィパッサナーの道に置き換える作業です。ここで言うヴィパッサナーの道とはサンマーディッティ(正見)、サンマーサンカッパ(正思惟唯)、サンマーサティ(正念)、サンマーサマーディ(正定)のことです。
ヴィパッサナーの道を歩まなければあるいはヴィパッサナー瞑想をしければ強制的にタンハー(渇愛)が生じ、それを避けることができません。タンハー(渇愛)が立ち上がるのを止められるものはそれ以外にありません。パティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)の道を歩む者はサムダヤ(集)、ドゥッカ(苦)がついて回ります。サムダヤ(集)、ドゥッカ(苦)が旅の道連れです。彼は輪廻の中の切り株のようなものであり、ブッダがこの宇宙に現れてもずっと切り株のままです。
読者の皆さんは、マッガパラ(道果)の道を進むか、輪廻の切り株のままでいるか今が決断の時ではありませんか。輪廻の暴流から解放されたいと思えば、マッガ(道)を歩むか、言葉を変えればヴィパッサナーを実践しなければなりません。そしてプッババーガマッガ(前分道)、五つの道支を取り入れることによりヴェーダナー(受)の生滅を洞察の智慧で覚知するようにしなければなりません。
注意していただきたいのはヴェーダナー(受)はわざわざ探すものではないということです。一般の人はそう思っていますがそうではありません。ヴェーダナー(受)は探し求めるものではありません。パッサ(触)がある時にはいつでもヴェーダナー(受)があります。私たちの中にはあれやこれやとヴェーダナー(受)がいつも広く存在しています。楽しいものもあれば痛みをともなうものもあります。受容できるものもあれば受け入れ難いものもあります。風変わりなものもあれば中立的なものもあります。だからわざわざヴェーダナー(受)を探す必要はありません。六つの感覚門のどれかに常に存在しているからです。
ヴェーダナー(受)は生滅によって、自らの存在を私たちに見せます。瞑想者は、ヴェーダナー(受)がアニッチャ(無常)、すなわち生滅するものであるということ洞察するべきです。ヴェーダナー(受)を正しく認識することができれば、その瞑想者はニッチャサンニャ(常想:永遠という誤った見解)の支配領域から逃れていると言えます。ヴィパッサナーの洞察によりヴェーダナー(受)がアニッチャ(無常)であると認識できれば正しい道を歩んでいます。
「ヴェーダナー ニローダー タンハー ニロードー」、つまりヴェーダナー(受)が滅すればタンハー(渇愛)も滅します。「タンハー ニローダー ニッバーナ」、すなわちタンハー(渇愛)の滅尽がニッバーナ(涅槃)です。
<脚注>
*「ヴェーダナーカーヤビックニッチャトーパリニッブトー」集中的な瞑想を繰り返すことによりヴェーダナー(受)を最も忌み嫌うべきもの、卑しむべきもの、憎むべきもの、不快なものとみなすならば、どのようなものであれヴェーダナー(受)に対する欲望、熱望、渇望は無くなり、あるいはヴェーダナー(受)そのものが止滅します。このようにして比丘は煩悩の滅尽(キレーサパリニッバーナ)を得ることができます。
*スッタニパータ