十二因縁・縁起

第三章

カンダパティッチャサムッパーダ(蘊縁起:縁起の中の五蘊)(現在の側面)

故モゴクセヤドーは熱心な修行者のためにカンダパティッチャサムッパーダ(蘊縁起:縁起の中の五蘊)について詳しく説明されました。これは瞑想修行への近道と言えます。カンダパティッチャサムッパーダ(蘊縁起:縁起の中の蘊)は教義全体のうち現在の側面について教えているからです。言い換えればカンダパティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起の中の蘊)によってカンダ(蘊)とその始まり、原因、消滅を理解することができるからです。パーリ経典では次のようになっています。

チャックンチャ パティッチャ ルーペーチャ ウパッジャティ チャックヴィンニャーナン ティンナン サンガティ パッソー パッサ パッチャヤー ヴェーダナー ヴェーダナー パッチャヤー タンハー タンハー パッチャヤー ウパーダーナン ウパーダーナン パッチャヤー バヴォー バヴァ パッチャヤー ジャーティ ジャーティ パッチャヤー ジャラー マラナ ソーカパリデーヴァ ドゥッカドーマナッサ ウパーヤーサ サンバヴァンティ エーヴァ メッタッサ ケーバラッサ ドゥッカッカンダッサ サムダヨホーティ

ソータッチャ パッティッチャ サッデーチャ ウッパッジャティ ソータヴィンニャーナン ガーナンチャ ウッパッジャティ ガーナ ヴィンニャーナン ジーヴァンチャ パティッチャ レーセーチャ ウッパッジャティ ジーヴァ ヴィンニャーナン カーヤンチャ パティッチャ ポッタベッチャダンメーチャ ウッパッジャティ マノー ヴィンニャーナン ティンナン...サムダヨホーティ

「チャックンチャ」は眼を、そして「ルーペーチャ」は視覚対象を意味します。この二つの現象が出会うとチャックヴィンニャーナン(眼識)が生じます。眼識が生じただけでそこには「私」、「彼」、「彼女」、「見る人」はいないということに注意してください。そこには「見る人」はいません。眼にも視覚対象にも「私」「彼」「彼女」はいません。眼識にも「私」「彼」「彼女」はいません。眼識は眼識にすぎず、それ以上でも以下でもありません。この眼識を「私」「彼」「彼女」と混同してはなりません。眼識を人格とみなしてはいけません。

眼、視覚対象、眼識の三つが組合わさってパッサ(接触)が生じます。そしてこの接触により、ヴェーダナー(受)が生じます。ヴェーダナー(受)には「私」「彼」「彼女」「あなた」はいません。

ヴェーダナー(受)が原因となってタンハー(渇愛)が生じ、タンハー(渇愛)が原因となってウパーダーナ(取:執着)が生じ、ウパーダーナ(取:執着)によりカーヤカンマ(身業:身体の行為)、ヴァチーカンマ(語業、口の行為)、マノーカンマ(意業:心の行為)が生じます。カンマバヴァ(業有)によりジャーティ(生:再生)が生じます。ここで使うジャーティはアパーヤジャーティ(悲惨な世界への再生)をほのめかしています(ナカシカ経、相応部経典)。

ジャーティ(生)によりジャラーマラナ(老死)、悲しみ、苦悶、苦痛、悲哀、絶望が生じます。こうして苦しみの大きな固まりが生じます。

「ソータンチャ パティッチャ サッデーチャ ウッパッジャティ」これは耳と聴覚対象がソータヴィンニャーナ(耳識)を生じさせるという意味です。同様にガーナンチャパティッチャ(鼻を縁として)、ジーワンチャパティッチャ(舌を縁として)、カーヤンチャパティッチャ(身体を縁として)、マナンチャパティッチャ(意を縁として)もそれぞれの感覚対象と感覚器官とともに理解してください。

これが故モゴクセヤドーが説明したカンダパティッチャサムッパーダ(蘊縁起)です。

意味をはっきりさせ分かりやすくするため現代用語を用いて説明したほうが良いかも知れません。

ある人が美しい対象を見ます。彼に欲が生じます。彼は執着しそれを手にいれようと努力します。例えば、何か美しいものを見ます。それが欲しくなります。これがタンハー(渇愛)です。それを所有したいという欲だからです。そして彼はそれを所有したいという強い欲に圧倒されて執着します。これがウパーダーナ(取)です。そしてまた彼は心の行為、口の行為、身体の行為であらゆる努力を重ねます。これがカンマバワ(業有)です。

読者の皆さんは図を参照し、パーリ経典を暗記することをお勧めします。

「カンマバヴァ パッチャヤー ジャーティ」はカンマバヴァ(業有)によってジャーティ(生)が生じるという意味です。「ジャーティ パッチャヤージャラー マラナ ソーカ パリデーヴァ ドゥッカ ドーマナッサ ウパーヤーサ サンバヴァンティ」とはジャーティ(生)が原因で老、死、愁、悲、苦、憂、悶が生じる、という意味です。こうして一連のパティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)が展開します。言い換えればこれが一連のパティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)が展開していく過程です。パティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)はカンダ(蘊)の生滅に過ぎません。そしてそのカンダ(蘊)はまさにドゥッカ(苦)そのものであり、ドゥッカ(苦)の連続です。

聡明な読者はもうお分かりと思いますが、私たちが一日のうちで数え切れないほどタンハー(渇愛)、ウパーダーナ(取)、カンマバヴァ(業有)を生じさせていることは明らかです。一般的な言葉を使えば、何かを見て、欲が生じて、押さえがたい渇望に圧倒されます。そしてこのために私たちは三つの過ちを犯します。心の行為、口の行為、身体の行為の三つです。同様に、何かを聞いた時に、それを好きになったり楽しんだりすればそれはタンハー(渇愛)です。強い渇望に圧倒されればそれがウパーダーナ(取)です。そして身体、口、心の行為を行えばそれはカンマバヴァ(業有)と呼ばれます。匂いを嗅ぐ、味わう、触れる、考えるのも同様です。

意識的であれ無意識であれ私たちはこうしたプロセスを夜明けから寝るまで繰り返します。

読者の皆さんは少なくとも、パティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)は自分の行為の連続に他ならないことに注意を向けてください。そしてもう一度カンダ(蘊)に考えを集中し、自分の一連の行為がこの因果法則の範疇に入るかどうか、パティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)の教義に合っているかどうか確かめてください。

パティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)そのものである自分の一連の行為を今こそ止めようと思ったら、サンサーラ(輪廻)から脱出する道が開けます。これまで通りの生き方を続けるなら、パティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)は繰り返され、悲しみ、苦しみ、苦悶、絶望、そしてドゥッカ(苦)全体のプロセスが絶えることなく続くことになります。

「眼」と「視覚対象」が出会うと「眼識」が生じます。修行者は「眼識」がまだ残っているのか、消え去ってしまったのか観察してください。「観察する意識」が眼識を観察した時、観察しようとした「眼識」は既に消え去ってしまっていることが分かると思います。観察者は「眼識」はもはやみつからないことが明確に分かります。「眼識」が生じるのは束の間だからです。同じように眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識が生じた時にはいつでも次の観察する意識(智慧)でその生起を観察しなければなりません。観察する意識が生じた時には眼識あるいはその他の意識は既に滅して、消え去っていることを忘れないでください。二つの意識が同時に存在することはないからです。

「アンニャン ウッパッジャテー アンニャン チッタン ニルッジャティ」これは一つ瞬間に生じる意識は一つだけという意味です。ですから修行者はルーパ(色)であれ、ヴェーダナー(受)であれ、サンニャー(想)であれ、サンカーラ(行)であれヴィンニャーナ(識)であれ、どのようなカンダ(蘊)が生起しても、それが生じているのは束の間であると観察して瞑想するようにしてください。カンダ(蘊)は生じては滅しているからです。私たちのカンダ(蘊)もまさにこのように生滅しています。現れるのはすべて束の間です。古いカンダ(蘊)が消え去り、新しいカンダ(蘊)が生じ、同じ過程が果てしなく繰り返されます。

修行者が眼識を観察、瞑想しそこねたら、タンハー(渇愛)が生じます。そしてタンハー(渇愛)も観察、瞑想しそこねたら、必ずウパーダーナ(取:執着)が続きます。ウパーダーナ(取)を観察、瞑想するべきですが、それにも失敗したらカンマバヴァ(業有)が生じます。そしてカンマバヴァ(業有)が生じれば、ジャーティ(生)、ジャラー(老)、マラナ(死)が必ず続いて生じます。こうしてパティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)が果てしなく展開します。

パーリ経典に沿ってもう一つの例をあげてみましょう。「ソータンチャ パティッチャ サッデーサ ウッパッジャティ ソータ ヴィンニャーナン ティンナン サンガティ パッソ パッサ パッチャヤー ヴェーダナー...ホーティ」ある人が学校から帰ってきた幼いわが子の声を耳にします。その声を耳にした途端、その人は子供に会いたくてしょうがなくなります。そしてさらに子供を抱き、髪をなで、キスしたくてたまらなくなり、あらゆる方法で子供をかわいがります。その人は考えます。その子は一人息子であり、愛しているから自分はそのようにするのだと考えます。彼は何の罪も犯していせん。道徳的な決まりを破っていないからです。しかし真理から見れば容赦の無いパティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)のプロセスが続き、果てしなく繰り返すことになります。

学校から戻った幼い息子の声を聞いたことでどのようにパティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)が回転を始めるのか分かりやすく説明してみます。幼い息子の声を聞くと、その途端に息子の姿を見て、抱き締め、愛撫したいというタンハー(渇愛)が生じます。

この渇愛が原因となって、息子を抱き締め、愛撫したいという強烈な欲が生じます。実際に息子を抱き締め、愛撫すればそれはカンマバヴァ(業有)です。そして「カンマバヴァ パッチャヤー ジャーティ」カンマバヴァ(業有)が原因でジャーティ(生)が生じます。図のセクションIIIとセクションIVの結合がこれを示しています。カンマバヴァ(業有:業の力)が生じるとジャーティ(生)が必ず続きます。「カンマバラン サッバンニュー ブッダーピ パティバヒトゥム ナサッコンティ」ブッダでさえも業の力を止めることはできません。

夜明けから日没までこのようなプロセスが続きます。魅力的な対象が目に入るたびにタンハー(渇愛)が生じ、タンハー(渇愛)のためにウパーダーナ(取)が生じ、ウパーダーナ(取)のためにカンマバヴァ(業有:業の力)が生じます。このようにパティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)が果てしなく回転し続けることになります。

好ましい音楽を聞くと渇愛が生じます、渇愛が原因でウパーダーナ(取)、カンマバヴァ(業有)、ジャーティ(生)、ジャラーマラナ(老死)と続いて生じます。こうしてパティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)全体が止まることなく永遠に回転を続けます。同様にかぐわしい匂いを嗅いだり、おいしい味を味わったり、心地よい対象に触れたりして、楽しい思いが生じればタンハー(渇愛)、ウパーダーナ(取)、カンマバヴァ(業有)、ジャーティ(生)、ジャラーマラナ(老死)、ソーカ(愁)、パリデーワ(悲)、ドゥッカ(苦)、ドーマナッサ(憂)、そして全ての悲しみと苦しみの塊が生じます。

実際、美しい対象、好ましい音、かぐわしい匂い、おいしい味、心地よい触感、楽しい思考が六つの感覚門に入った時にはいつでもタンハー(渇愛)とその他の要素が生じます。このような一連のプロセスはキレーサヴァッタ(煩悩輪転)に他ならず、キレーサヴァッタ(煩悩輪転)が原因でカンマヴァッタ(業輪転)が生じ、今度はカンマヴァッタ(業輪転)がヴィパーカヴァッタ(異熟輪転)を生じさせます。図をご覧ください。アヴィッジャー(無明)、タンハー(渇愛)、ウパーダーナ(取)がキレーサヴァッタ(煩悩輪転)です。カンマヴァッタ(業輪転)はサンカーラ(行)とカンマバヴァ(業有)からなります。そしてヴィンニャーナ(識)、ナーマルーパ(名色)、サラーヤタナ(六処)、パッサ(触)、ヴェーダナー(受)、ジャーティ(生)、ジャラーマラナ(老死)がヴィパーカヴァッタ(異熟輪転)を構成します。

同様に、ガーナンチャパティッチャ(鼻縁)、ジワンチャパティッチャ(舌縁)、カーヤンチャパティッチャ(身縁)、マーナンチャパティッチャ(意縁)はカンダパティッチャサムッパーダ(蘊縁起)とみなしてよいだろうと思います。そしてカンダパティッチャサムッパーダ(蘊縁起)はヴィパッサナー瞑想によって観察し瞑想すべきものです。そうしないとサンサーラ(輪廻)のプロセス全体が止まることなく続き、あらゆる悲しみと苦しみがついてまわるからです。

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