サッカーヤディッティ(有身見)が生じる仕組み
(チューラベラッダスッタ、ミューラパンニャーサ:根本五十経)
ブッダがラージャガラハ王国のヴェルヴァナ僧院に滞在されていた時、ヴィサーカという名の富豪とその妻ダンマディッナーがいました。その妻は後に比丘尼になりました。ヴィサーカはブッダの説法を聞くために、毎朝ブッダの僧院を訪れることを習慣にしていました。自宅に戻ったヴィサーカは門で待っていた愛らしい妻と腕を組んで家に入りました。ある日のこと、ダンマディッナーはいつものように門の所で待っていました。しかしいつもより威厳のある雰囲気で帰ってきた夫は腕を組もうとはしませんでした。夫の態度に当惑しながらもダンマディッナーは何も言いませんでした。床に就く際にダンマディッナーはヴィサーカに、「自分に何か落ち度があっのでしょうか、それでいつもと異なる生真面目ふるまいをされたのでしょうか」と尋ねました。ヴィサーカは、「私にもダンマディッナーにも何も悪い所はない、より高い洞察(不還果)を得たので自分のふるまいが生真面目に見えるのだと」と答えました。そして、自分は出家するので、全ての財産はダンマディッナーのものであり、誰か好きな人がいれば再婚しても構わない、と伝えました。
これに答えてダンマディッナーは言いました。「あなたはより高い智慧とおっしゃいましたが、それは男性だけに限られたものでしょうか。女性はその高いダンマ(法)から除外されているのでしょうか。」
夫は答えました。「そんなことはない、妻よ、ブッダが説かれたダンマ(法)は全ての人に開かれています。」
妻は答えました。「それならば、私が法(ダンマ)を聞きに行くことをお許しください。」数日後ダンマディッナーは比丘尼となり、尼僧院に入りました。かいつまんで話せば、ダンマディッナーは最終的に阿羅漢となりました。
ヴィサーカと阿羅漢となったダンマディッナー比丘尼の問答が伝えられています。
ヴィサーカが尋ねました。「ブッダが説かれたサッカーヤ(有身)とはなんでしょうか。」
ダンマディッナー阿羅漢はこう答えました。「在家信者ヴィサーカよ。パンチャカンダ(五蘊)がサッカーヤ(有身)です。」
「どのようにしてサッカーヤディッティ(有身見)が生じるのでしょうか。」
「在家信者ヴィサーカよ。パンチャカンダ(五蘊)を誤って「人格」、「自我」、「私」とみなし、信じることそれがサッカーヤディッティ(有身見)です。」
「再び尋ねます。何故、どのようにしてサッカーヤディッティ(有身見)が生じるのでしょうか。」
「在家信者ヴィサーカよ。ブッダは次のように教えておられます。聖者(修行完成者)に近づこうとしない無知な俗世間の人々(プトゥッジャナ:凡夫)は聖なる法(アリヤダンマ)が分からず、聖なる教え(真理)に従いません。そして徳のある人や聖者に近付くことを欲せず、その教えが分からず、彼らに従いません。こうして凡夫は色(ルーパ:身体)を我(アッタ)、自我とみなし、我(アッタ)は色(ルーパ:身体)を持ち、色(ルーパ:身体)には我(アッタ)がある、色(ルーパ:身体)には我(アッタ)ないし自我があると思い込みます。」
「同様にヴェーダナー(受)、サンニャー(想)、サンカーラ(行)、ヴィンニャーナ(識)をアッタ(我)、自我であると誤った解釈をします。そしてヴィンニャーナ(識)はアッタ(我)、自我を持ち、ヴィンニャーナ(識)にはアッタ(我)、自我があり、アッタ(我)、自我はヴィンニャーナ(識)を持つと思い込みます。」
「在家信者ヴィサーカよ。これはちょうど火が燃えることと炎を区別できず、炎そのものを火が燃えることであると考えるようなものです。同様に、無知で教導されることも説法を聞くこともなくそれに従おうともしない俗世間の人々はルーパ(色:身体)、を我(アッタ)、自我と誤って解釈し、ヴェーダナー(受)、を我(アッタ)、自我と誤って解釈し、サンニャー(想)を我(アッタ)、自我と誤って解釈し、サンカーラ(行)を我(アッタ)、自我と誤って解釈し、ヴィンニャーナ(識)を我(アッタ)、自我と誤って解釈します。こうしてサッカーヤディッティ(有身見)が生じます。」