十二因縁・縁起

第十九章

チッターヌパッサナー(心を対象にした瞑想)

最終的な悟りを得たいと望む人はソーターパッティ(預流者)、サカダーガーミィ(一来者)、アナーガーミィ(不還者)を順に進んでいく必要があります。聖者の第一段階である預流果に悟るためには邪見(ディッティ)と疑い(ヴィチキッチャ)を根絶しなければならないことは広く知られている事実です。

分別論注釈には次のように書かれています。「ディッティ チャリサッタピマンダッサ ナーティパ ベーダガタン チッターヌパッサナー サティパッターナン ヴィシュディマッゴー(邪見に傾きやすく知的な精進が十分でない比丘が悟りを得るためには簡潔でわかりやすく定型化されたチッターヌパッサナー(心随観)が適しています。)」

故モゴクセヤドーは大変簡潔でわかりやすく定型化されたチッターヌパッサナー(心随観)の瞑想法を説かれました。これはより現実的な応用を好む現代人にふさわしく、簡単に実践することができます。以下に示す十三種のチッタ(心)とヴィンニャーナ(識)が瞑想対象になります。十三種すべてを同時に瞑想するわけではないことに注意してください。一度に一つのチッタ(心)をそれが生じた瞬間に瞑想ないし観察します。一つの瞬間には一つの意識しか生じえないことを忘れないでください。アンニャン ウパッジャティ チッタン アンニャン チッタン ニルッジャティ(一つの意識が滅して次の意識が生じます)。

一般に私たちにはたくさんの種類のチッタ(心)が生じると信じられています。チッタ(心)は千ないし二千にもなりますが、故モゴクセヤドーによれば十三種類に分類出来ます。それは以下のようになります。

1、眼識
2、耳識
3、鼻識
4、舌識
5、身識

以上は外界から訪れる意識と呼ばれます。

6、ローバ(貪)識
7、ドーサ(瞋)識
8、モーハ(癡)識
9、アローバ(不貪)識
10、アドーサ(不瞋)識
11、マノ(精神)識

以上は内部から訪れる意識と呼ばれます。

12、入息識
13、出息識

この二つは「主体(ホスト)」の意識と呼ばれます。

この十三種類のチッタ(心)は通常の俗世間の人たちのチッタ(心)を全て含みます。注意していただきたいのは、チッタは全てアーランマナ(対象)がドゥヴァーラ(感覚門)にぶつかることで生じること、意識が生じるのは六門からだけであることです。チッタ(心)が六門の外で生じることは決してありません。

またチッタ(心)とヴェーダナー(受)はサハジャータダンマ(同時に起こる現象)であるということにも注意してください。またヴェダナー(受)とサンニャー(想)はチッタサンカーラ(心行)に分類されます。ナーマカンダ(名蘊)を対象に瞑想してもルーパカンダ(色蘊)を除外するわけではありません。五蘊は同時に生じ、同時に存在し、同時に消えて行く現象(サンパユッタダンマ、相応法)ですので五蘊の一つを対象に瞑想すれば五蘊の残りも同時に瞑想することになると言えます。しかしチッタ(心)は最も優勢で顕著な現象なのでここではそれを瞑想対象としてチッターヌパッサナー(心随観)と名付けています。実際、五蘊の全ては相互に関連しており、それは砂糖、果実ジュース、塩、水といった成分が含まれたライムジュースシロップのようなものです。

したがってチッターヌパッサナー(心随観)の瞑想を実践している時にはカーヤーヌパッサナー(身随観)も含まれることになります。なぜなら入息識、出息識が「主体(ホスト)」の意識としてチッターヌパッサナー(心随観)に組み込まれているからです。そのようなわけでカーヤーヌパッサナー(身随観)もヴェーダナーヌパッサナー(受随観)も除外されるわけではありません。最終的にはチッターヌパッサナー(心随観)、カーヤーヌパッサナー(身随観)、ヴェーダナーヌパッサナー(受随観)が合流してダンマーヌパッサナー(法随観)に帰結します。そしてダンマーヌパッサナー(法随観)ではサッチャー(真理)が最終的な決定要因となります。

先ほど示しました十三種類のチッタ(心)をご覧ください。食べたい、匂いを嗅ぎたい、などはローバ(貪)識によります。イッサー(嫉妬)、マッチャリヤ(物惜しみ)はドーサ(瞋)識です。布施をしようという意識や思考はアローバ(不貪)識ないしヴィタラーガ(離貪)です。ウッダッチャ(掉挙、混乱)はモーハ(癡)識です。アモーハ(不癡)ないし智慧はこの十三種の中に含まれていません。なぜでしょうか。アモーハ(不癡)はサンマーデッティマッガンガ(八正道のうちの正見)ないしパンニャー(智慧)であり瞑想をする意識、一方十三種類のチッタ(心)は瞑想されるべき対象だからです。この十三種のチッタ(心)は一つの瞬間に一つだけ生じます。これはこれまで述べてきた通りです。

瞑想対象となるチッタ(心)が多すぎて、それを理解し認識するのはとても難しいと多くの人が考えています。瞑想する時には一つの瞬間に生じる意識は一つだけであることを思い出してください。また、自分自身の心を観察することはそんなに難しくありません。どのような種類の意識や思考が心を通り過ぎたか簡単に分かります。ローバ(貪)識が生じたら、ローバ(貪)識が生じたと正確に分かります。したがって自分自身のチッタ(心)ないし意識の生滅を観察するのは手軽な修行であり誰で容易に瞑想できるということを忘れないでいてほしいと思います。

意識の生滅を完全に理解し、観察する瞑想者は涅槃へ至る正しい道を歩んでいると言えます。これに疑いを挟む余地はありません。

目を開けると眼前の全てが見えます。これが眼識の生起で瞑想者はこの生起の様子を理解し観察します。音を聞けば耳識が生じますが、それを観察し理解しなければなりません。舌識が生じればこれも観察し理解しなければなりません。踵に刺激やかゆみ、心地よさや不快を感じたら身識が生じています。瞑想者はどのような意識が生じてもその全ての生滅を理解し観察しなければなりません。一度に生じるのは一つの意識だけです。複数の意識が同時に生じるのは不自然であり、あり得ません。修行が進むにつれて瞑想者の洞察はより力強いものとなり、気づきは生滅のみに集中するようになります。意識の生滅を気づき損ねる頻度は減り、稀になります。一般的にこの段階で瞑想者はローバ(貪)、ドーサ(瞋)、モーハ(癡)、アドーサ(不瞋)、アローバ(不貪)など、どのような意識が生じても明瞭に観察し洞察します。生じた意識は自ら消え去ります。どのような意識も二つの瞬間にわたって同じであり続けることはないことを明瞭に観察します。意識の寿命は瞬間です。意識は別の意識が滅した後に生じると言われています。ですからチッタ(心)を対象とした瞑想では、対象とする意識が既に滅した状態だけを観察することになります。したがって瞑想ないし観察対象がどのような意識であれ瞑想者が見いだすのはアニッチャ(無常)、すなわち意識の消滅だけとなります。しかしもし「意識やチッタ(心)が滅したり消えたりすることはない」と観察し、それにこだわるならそれはアニッチャーヌパッサナー(無常随観)ではありません。瞑想者はニッチャサンニャー(常想、物事が永続するという概念)を克服できていません。五蘊の本質、つまり生滅を感じ取れるようになるまでまだまだ頑張らなければなりません。

ヴィパッサナーの洞察によりアニッチャ(無常)を観察、悟った瞑想者はドゥッカ(苦)を観察し悟ります。

アニッチャ(無常)、アニッチャ(無常)と繰り返し唱えても厳密な意味でアニッチャ(無常)を悟ることは決してありません。大切なのは五蘊が常に自ら示しているアニッチャ(無常)を自分の眼で観察することです。アニッチャ(無常)という言葉を反復したり数珠をつまぐったりして勝手に作ったアニッチャ(無常)のイメージではありません。生起、消滅という現象は生命に常に起こっており、アニッチャダンマ(無常法)と呼ばれます。アニッチャダンマ(無常法)は五蘊が現れては消え去ることでいつもその姿を私たちに見せているのです。それを感じ取ることが出来るのはヴィパッサナーの洞察だけです。意識の生起と消滅はチッタニヤマ(心結定)と呼ばれ、当然ながら無限に繰り返すものであるということをもう一度強調しておきます。生滅という性質を持つ五蘊についての正しい智慧をヤターブータニャーナ(如実智)と呼びます。私たち生命存在は五蘊の消滅に過ぎないと理解する智慧です。

言葉を換えれば五蘊の本質についての智慧です。

生滅はあまりにも早いので識別することが困難で理解できません。瞑想者は生滅のスピードを正確に知る必要はありません。この段階で基本となるのは五蘊の生起と消滅を観察することだけです。話を「主体(ホスト)」の意識に戻しますが瞑想者は入息の意識と出息の意識を観察しそれに気づかなければなりません。
つまりこの二つの意識の生起と消滅を観察し、それに気づかなければなりません。

入息の意識を観察すると、それが既に滅し、消え去っていることがわかると思います。同様に、出息の意識を観察するとそれも既に滅し、消え去っていることがわかります。こうして消滅し消え去った意識はアニッチャ(無常)であり、前の意識が既に消滅し消え去ったと感じ取る意識をマッガ(ヴィパッサナーマッガ:ヴィパッサナーの道)と呼びます。

瞑想と観察の際、瞑想者はほとんどの時間を、「入息・出息の意識」とその「無常性を感じ取る意識」に気づくことに費やします。したがって瞑想者が心に止めなければならないのはアニッチャ(無常)とマッガ(道)ということになります。

外から訪れる意識、内から訪れる意識という名前は、それが常にあるではなくて時々訪れるものだからです。パーリ経典では思考の一部も時々訪れるものであると説明されています。

チッターヌパッサナー(心の随観)はいつどこで実践したらよいのだろうかと思われるかもしれません。ヴィパッサナー瞑想センターでしょうか、それとも僧院でしょうか。チッターヌパッサナー(心の随観)は意識が生じるところであればどこでも実践できる、これが答えです。もし歩行中にチッタ(思考)が生じたら歩行しながら瞑想しなければなりません。食事の際に意識が生起したらその時、その場所で瞑想しなければなりません。職場で座っている時に意識が生じたらやはりその時、その場所で瞑想しなければなりません。瞑想で必要とされるのは自分自身の意識を注意深い気づきと理解をもって観察することに尽きます。生滅への気づきと観察が詳細になればなるほど瞑想でより多くの結果を得ることができます。注意が散漫となり、落ち着きが無く、混乱が増せば煩悩(貪、瞋、癡)がはびこり皆さんの中に住み着くことになります。そのような時はどのような対象が向かってきてもその生滅を観察するのが得策かと思います。瞑想者の皆さんのためにもう一度はっきりさせておきたいと思いますが、先行して生じ、既に滅してしまったチッタ(心)がアニッチャ(無常)で、すぐ後に続き、観察し瞑想するチッタ(心)がマッガ(道)と呼ばれます。このようにアニッチャ(無常)があってマッガ(道)が続きます。言葉を換えれば消えて行くチッタ(心)ないし意識をアニッチャ(無常)と呼びます。チッタは一時的で次の瞬間まで継続せず、同じであり続けることはないからです。

そしてこの消えたチッタ(心)を次のチッタ(心)が観察し瞑想します。最初のチッタ(心)のすぐ後に続くこのチッタ(心)はヴィパッサナーサンマーディッティ(ヴィパッサナー正見)ないしヴィパッサナーマッガ(ヴィパッサナーの道)ですのでマッガ(道)となります。こうしてアニッチャ(無常)、マッガ(道)、アニッチャ(無常)、マッガ(道)という流れが連続して生じることになります。

<脚注>
全ての意識はただ生じるだけでなく消え去るということを観察し認識しなければなりません。

ヴィパッサナー瞑想においては、先行するアニッチャ(無常)とそれに続くマッガ(道)が次から次へと間断なく続いていること、アニッチャ(無常)とマッガ(道)の間にキレーサ(煩悩)が入り込まないこと、この二つに注意を注ぐことが大事です。言い換えれば消滅し消え去った意識ないしチッタ(心)を見逃す事なく適切にラベリングし観察しなければなりません。「先行するチッタ(心)は消えてしまったのでアニッチャ(無常)である」と観察し理解しなければなりません。続いて起こるチッタ(心)は先行するチッタ(心)が消えてしまったことを感じ取るのでマッガ(道)と呼ばれるのです。

修業中はあらゆる種類のチッタ(心)が生じます。関連があるものもあれば関連が無いものもあります。望ましいものもあれば望ましくないものもあります。その全てを対象として瞑想しなければなりません。いかなる場合も落胆したり欲求不満になったりしてはなりません。どのようなチッタ(心)もただの瞑想対象とみなすべきです。

ダンマ(法)の六徳の中にエーヒパッシコという言葉がありますがこれは「来れ、見よ」という意味です。このようにダンマ(法)は全ての人に、「来て、自分の目で見て、ダンマ(法)を対象に瞑想してみてください」と呼びかけています。私たちは絶え間無くアニッチャダンマ(無常の法)、すなわち生起と消滅を経験しているのです。

ヴィパッサナー修業において観察と気づきの取りこぼしがほんの数えるほどになれば修行は進んでいるといって良いと思います。生起と消滅のみを追いかけ、キレーサ(煩悩)が入り込む余地がありません。そのような瞑想者はキレーサ(煩悩)のくびきを打ち砕くことが可能な段階に達しており、聖者の最初の果である預流果の悟りを得るのもそれほど先のことではありません。

ブッダは説かれました。

イダ ビッカヴェー アーリヤサーヴァコー チッタン アニッチャーヌパッスィ ヴィハラティ アニッチャ サンニィ アニッチャパティサンヴェディササタン サミタン アッボーキンナン チェータッサ アディムッチャマーノー パンニャーヤ パリヨーガーマーノー ソー アーサヴァーナンカヤー アナーサヴァン チェートー ヴィムッティン パンニャヴィムッティン ディッテーヴァダンメ サヤマビンニャー サッティカトヴァー ウパサンパジャー ヴィハラティ(増支部経典)

聖なる弟子は常にチッタ(心)を対象に瞑想して住します。対象を取りこぼすことはありません。「チッタ(心)は一時的で、永続せず、耐え難いものであり、二つの瞬間にわたり同じであり続けることはない」と洞察をもって完璧に理解します。したがって聖なる弟子にはアニッチャ(無常)の知識だけがあり、他のキレーサ(煩悩)が生じることはありません。アーサワ(漏、煩悩)から解放されています。そして今生で涅槃を悟ることができます。

<脚注>
キレーサ(煩悩)が全く入り込むことなく、先行するアニッチャ(無常)とそれに続くマッガ(道)を観察し続けることができれば七日間で至高の悟りを得ることができると言われています。

瞑想者はキレーサ(煩悩)がヴィパッサナー修行に入り込まないようにしなければなりません。智慧と理解を持って精進し、どのようなチッタ(心)が生じてもその生起と消滅に集中しなければなりません。ダンマ(法)は常にこの生起と消滅を自ら示しているのです。

生滅についての洞察を得てそれが熟すとウダヤッバヤ(消滅)ないしヤターブータニャーナ(如実智)を得ることができます。これにより五蘊の本質、すなわちドゥッカサッチャー(苦諦、苦の真理)を見ることができます。

五蘊の生滅の智慧を得たらどのような福徳があるのでしょうか。例えばローバ(貪)の意識が生じたとします。ヴィパッサナー瞑想をすればローバ(貪)の意識はどこにも存在せず、ただローバ(貪)の意識の生滅があるだけだとわかります。これはローバチッタ(貪心)がこれ以上生じないことを意味します。こうして十二因縁の過程が真ん中で断ち切られます。ローバチッタ(貪心)が死んだとも言えます。一方瞑想を怠ってローバチッタ(貪心)をそのままにすると必ずウパーダーナ(取)が続いて生じます。そしてウパーダーナ(取)に続いてカンマバヴァ(業有)が生じます。カンマバヴァ(業有)が生じればジャーティ(生存)が生じるのを避けられません。ジャーティ(生存)を得るとドゥッカ(苦)が生じ、ついには十二因縁の輪が完成します。輪廻のサイクルが回転し続け再生が永遠に繰り返されることになります。

生滅すなわち無常を対象にした瞑想修行が進めば再生の繰り返し(輪廻)を止められる、そのことを知っておく必要があります。瞑想修行は輪廻の輪を粉砕する仕事です。十二因縁の連鎖を断ち切る仕事です。言い換えれば五蘊の生起と消滅を対象に瞑想することで無明(アヴィッジャー)を駆逐し洞察(ヴィッジャー)を得る仕事です。五蘊は本質的にドゥッカサッチャー(苦諦)以外の何物でもありませんがそれはヴィパッサナーの洞察があって初めて認識し理解することができるのです。

このような本質を見抜く洞察を得るとヴィッジャー(明智)が生じ、アヴィッジャー(無明)は消え去ります。初転法輪経には「チャックン ウダパーディ ニャーナン ウダパーディ パンニャー ウダパーディ ヴィッジャーウダパーディ アーローコー ウダパーディ(ドゥッカサッチャー(苦諦)を見抜く洞察を得た時、アヴィッジャー(無明)はヴィッジャー(明智)になります)」と説かれています。ですからアヴィッジャー(無明)が消え、変わってヴィッジャー(明智)が現れると言われているのです。

十二因縁に従えばアヴィッジャー(無明)がヴィッジャー(明智)になるとサンカーラ(行)はもはやヴィンニャーナ(識)とへと接続する力を失います。言い換えれば十二因縁のセクションIとセクションIIの連結ができなくなります。これについては十二因縁の図をご覧ください。この連結が起こらないとサンカーラ(行)は結果を出すことができず新たなジャーティ(生存)(多くはアパーヤジャーティ:悪趣としての生存)をもたらすこともありません。言い換えれば十二因縁がそのスタートから壊れてしまいます。逆にこの連結が生じれば新たな五蘊が形成され次の生存が始まります。
ヴィパッサナー瞑想修行のおかげでジャーティ(新たな生存ないし再生)のもとになる機能の組み合わせはもはや現れません。アヴィッジャー(無明)がヴィッジャー(明智)になると同時にその一連の機能は停止します。こうして十二因縁の連結はそのスタートから破壊されるのです。だからアパーヤカンダ(悪趣の五蘊)はもはや生じなくなるのです。

<脚注>
ブッダによれば死後人間よりも上の世界に再生できるのは十万人に一人いるかいないかである、とされています。

ディッティ(見)が消えるとその結果であるカンダ(蘊)の全てが停止します。同様にヴィチキッチャ(疑)が消えるとそのために生じたカンダ(蘊)の全てが止まります。同じ手順でキレーサ(煩悩)ないしアヌサヤ(随眠煩悩)により生じたカンダ(蘊)の全てが段階的に停止します。故モゴクセヤドーが大悲から修行者たちに繰り返し、繰り返し五蘊の生滅を瞑想するようにと訴えられたのはこのためです。

瞑想者が生滅の智慧を得た場合、それはヤターブータニャーナ(如実智)と呼ばれます。絶え間無く続く五蘊の生滅に嫌気がさすとそれはニッビダニャーナ(厭離の智慧)と呼ばれます。こうした智慧を得た後、引き続き生滅を対象に瞑想すればやがて五蘊の生滅が止まった状態になります。これはマッガニャーナ(道の智慧)と呼ばれます。この三つのニャーナ(智慧)の段階を経て修行者はマハーソータッパーナ(大きな預流者)となります。

預流果に悟ることは世界の帝王ないし天界の(チャッカラージャ)転輪王になることよりもはるかにすぐれていると言われています。なぜならブッダによれば預流者は四悪趣(四つの悲惨な生存世界)に落ちる危険がないと言われているからです(チェトゥハー パーイェーヒカ ヴィパッムトー)。また預流者は癩病にかかったり、つんぼや唖になったり、盲やかたわになったりすることはないとも経典に説かれています(チャチャービ ターナーニ アバッバ カートゥン)。最大で七回の生存の内に阿羅漢果を得て最終的な涅槃を悟るとされています。

十二因縁の観点から言えば、五蘊の生滅を悟った修行者は十二因縁の始めの部分が壊れています。生滅はドゥッカ(苦)でそれを知る智慧はヴィッジャーマッガ(明智の道)だからです。その結果タンハー(渇愛)、マーナ(慢)、ディッティ(見)も消えており、それ故十二因縁はその真ん中でも粉々に壊れています。さらにドゥッカ(苦)、ドーマナッサ(憂)、ウパーヤッサ(愁)が生じる機会もありません。したがって十二因縁の最後の部分も壊れています。

サッチャー(真理、諦)の観点から見れば、生滅はドゥッカサッチャー(苦諦)で、それを悟る智慧はマッガサッチャー(道諦)です。タンハー(渇愛)、マーナ(慢)、ディッティ(見)が駆逐されればそれはサムダヤサッチャー(集諦)の終わりを意味します。ジャーティ(生存)、ジャラー(老)、マラナ(死)が生じないことはニローダサッチャー(滅諦)です。

したがって生滅を対象にした瞑想はチャトゥアリヤサッチャー(四聖諦、四つの聖なる真理)を全てカバーすることになります。ですから一刻も早くヴィパッサナー瞑想を実践しなければなりません。一日遅れれば一日分のチャンスが失われることになります。
いついかなる時にも予期せぬ厄介な事態が生じうるのです。またストレスの多い現代社会では病気や死の危険が常についてまわります。

来世でアパーヤブーミ(苦界での生存)に落ちる危険を回避できる唯一の方法がヴィパッサナー瞑想の実践なのです。

-十二因縁・縁起