悟りを得ていない一人の比丘と四人の阿羅漢
ブッダがジェータワナ僧院に滞在されていた時のことです。まだ悟りを得ていないある比丘が、どうしたら悟りを得て涅槃へ向かうことができるのか知りたいと思いました。そして阿羅漢の一人に尋ねました。「キッター ヴァターヌコー アーヴゥソー ヤターブータン ニャーナダッサナン スヴィスッダンアホースィ(涅槃をはっきりと見るために必要なものはなんでしょうか)。」阿羅漢は答えました。「ヤトーコー アーヴゥソー チャンナン アーヤタナーナン サムダヤンチャ アッタンガマンチャ ヤターブータン ニャーナダッサナン スヴィスッダン ホースィ(涅槃をはっきりと見るために必要なのは、六つの感覚器官(六門)の生滅をあるがままに知り感じ取ることです)。」(感覚器官はアーヤタナと呼ばれ、眼、耳、鼻、舌、身、意の六つあります。)生滅する現象に過ぎないルーパ(物質ないし身体)とナーマ(精神現象)をあるがままに理解しなければなりません。六つの感覚器官をあるがままに理解し、感じ取ることができれば涅槃を悟ることができます。
質問した比丘はまだ凡夫(悟りを得ていない普通の人)でしたので、この答えに満足できませんでした。理解しなければならないものがあまりにも多すぎると考えたからです。生滅の智慧よりも理解しなければならないものの数の方の方が気になったのです。やるべきことが余りも多いと思いながら別の阿羅漢に同じ質問をしました。
二番目の阿羅漢は「涅槃を悟るためには五蘊(生命を構成する五つの集合ないし構成要素)の生滅をあるがままに感じ取り、理解しなければなりません」と答えました。悟りを得ていないこの比丘はその答えにも満足できませんでした。まだ数が多すぎると思ったのです。この比丘があまりにも数にこだわり、生滅という大事なポイントを軽んじていたのは明らかです。
二番目の答えにも満足できなかったその比丘は三人目の阿羅漢の所へ行き、また同じ質問をしました。三番目の阿羅漢は「涅槃を悟るためには必要なのは地(パタヴィー)、水(アーポー)、火(テージョー)、風(ヴァーヨー)の四大要素(マハーブータ)の生滅を感じ取り、理解することです」と答えました。
(脚注)
地:堅さと柔らかさの要素、水:結合の要素、火:熱と冷たさの要素、風:動きの要素
最初の二つの答えよりはまだましだとは思いましたがやはり満足できませんでした。大事なのは数ではなく生滅であるということが分からなかったのです。
その比丘は四人目の阿羅漢の所へ行き、同じ質問をしました。四人目の阿羅漢は答えました。「ヤンキンチ サムダヤ ダンマン サッバンタン ニローダダンマンティ(どのような現象であれ生じたものは滅するのが定めです。この法(ダンマ)を理解すれば涅槃を悟ることが可能になります)。」
比丘はこの答えにも全然満足できませんでした。これでもまだ二つの法(ダンマ)を理解しなければならないと考えたからです。理解しなければならないのは生起と消滅であり、六門(アーヤタナー)、蘊(カンダ)、四大要素(マハーブータ、大種)ではないことがまるっきりわからなかったのです。生起と消滅ないし無常がヴィパッサナー瞑想の中核であるということがわからなかったのです。その比丘ブッダのところへ行き、四人の阿羅漢から聞いた答えと、それに対する不満を述べました。
ブッダはお答えになりました。「比丘よ、ある時ゴムの木を一度も見たことがない男がいました。そしてたまたま出会った人にゴムの木の見た目がどのようなものか尋ねました。その人は焼け落ちた木しか見たことがなかったので黒い色の木であると答えました。その答えに満足できなかったその男は別の人にも尋ねました。その人は花開いた時の木しかみたことがなかったので、厚切りの肉の様だ、と答えました。男はまた別の人に同じ質問をしました。その人は実をつけた木しかみたことがなかったので、鞘におさまった剣のようだ、と答えました。これにも満足できず四人目の人にも同じ質問をしました。その人は緑濃い葉が生い茂った春の木しかみたことがなかったので、葉を広げたバニヤンの木のようだ、と答えました。」ブッダは続けました。「四人はそれぞれの見方で正しくゴムの木を表現しています。同じように、最高の悟りと真の洞察智、そして汚れのない洞察を得た四人の阿羅漢はそれぞれの立場で正しく語っています。四人共、生起と消滅(サムダヤンチャ アッタンガマンチャ)の大切さを強調しています。」
六つの感覚門(アーヤタナ)、五蘊(パンチャカンダ)、四大要素(マハーブータ)、その他どのような用語も基準とはならないことに注意してください。生起と消滅が基準です。私たち生命には生起と消滅以外に何もないからです。ヴィパッサナーにおいては生滅こそが根本であり、修行者はこれによって無常の洞察を得ることができます。無常を感じ取ることによって苦諦(苦しみという真理)がわかるのです。無常を理解することなしには真理(サッチャ)を洞察する智慧を得ることさえも出来ないと言われています。修業者にとって大切なことは生滅から離れないことです。この段階で修業者は「生滅を対象にしない瞑想はどのようなものであれ不完全で正しくない」という結論に達することもあります。
ヴィパッサナー瞑想は生起と消滅(ウダーヤ、ヴァヤ)から始めなければならないことは否定のしようがありません。ですから生起と消滅(ウダーヤ、ヴァヤ)を対象にしない瞑想は純粋なヴィパッサナーとは言えず、それに頼ることはできません。
ブッダは説かれました。「サッベー サンカーラ アニッチャーティ ヤダーパンニャーヤ パッサティ アタ ニッビンダティ ドゥッケー エーサマッゴー ヴィシュディヤ(条件付けられ、組み立てられたものはすべて無常です。ヴィパッサナーの智慧によりこの事実を理解すると、修業者の心に五蘊をひどく嫌悪する心が生じます。五蘊は絶え間無く生滅を繰り返し、苦しみ以外の何物でもないからです。もはや五蘊に対する渇愛は無くなり、来世での生存に対する渇望の火が燃え上がることもありません。彼は涅槃の入り口に立っていると言えます)。」
ブッダはまた次のようにも説かれました。「アニッチャーヴァタ サンカーラー ウッパーダヴァヤ ダンミノー ウッパッジトゥヴァ ニルッジャンティテーサン ヴパサモー スコー(条件付けられ、組み立てられたものはすべて無常です。生じては滅します。あるのは生滅だけです。生じたものは必ず滅します。苦しみであるこの生滅が止まり、無くなった所、それが最高の幸せ(涅槃)です)。」
有名なこの二つのパーリ偈文は繰り返し唱えるためだけのものでは無いことは明白です。しかし私たちはこれまでブッダに対する献身としてただ復唱するだけでした。この偈文はヴィパッサナー修業で忘れてはならない基本です。
一方念処経では四念処の全てにおいて「サムダヤ ダンマーヌパッスィヴァー ヴィハラティ、ヴァヤ ダンマーヌパッスィヴァー ヴィハラティ、サムダヤ ヴァヤ ダンマーヌパッスィヴァー ヴィハラティ(生起の法を観察して住する、あるいは消滅の法を観察して住する、あるいは生起と消滅の法を観察して住する)」と書かれています。比丘は生起と消滅を対象に瞑想しなければならないという意味です。
これでヴィパッサナー瞑想においては生起と消滅が大変重要で不可欠であるということが明らかになったことと思います。
<脚注>
生滅に対する洞察の智慧を得て一日を生きることは生滅を感じ取る事なく百年生きるよりもはるかに徳が高い(ダンマパダ)