ナモー タッサ バガヴァトー アラハトー サンマサンブッダッサ
(阿羅漢であり正しく覚られた方である世尊に心から尊敬の念を捧げます)
パティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)の教え
仏法経典の教義の中で際立っているのはチャトゥー アーリヤ サッチャ(四つの聖なる真理)で、これはお釈迦様の教えの中で最も重要で根本的なものです。パティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)の教義はこの四つの正しい真理に次いで大切な教えです。
預流道果、一来道果、不還道果、阿羅漢道果に達した聖者たちは、まずパティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)の連鎖を断ち切り、次いで四つの聖なる真理を完全に理解し悟ることによってのみ、道果を得ることができたのです。ヴィパシ菩薩もブッダとなられる前、パティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)について始めから終わりへ、そして終わりから始めへと何度か熟考し、またそれを対象にして瞑想し、ついにアーサワッカヤニャーナ(漏尽智)という洞察の智慧を得て、無明と渇愛を滅ぼしつくし無上の覚りを開かれました。
私たちに最も近い時代に現れたゴータマブッダもそれ以前のブッダたちの足跡をたどり、同じように因縁の教義を始めから終わりへ、そして終わりから始めへと数回にわたり深く、そして真剣に瞑想し、ついに無明と渇愛を滅ぼしつくし、根絶やしにしてブッダとなられました。覚りに先立って地震などの大きな自然現象が起こったとされています。
水ももらさぬ完璧な教義
三蔵(パーリ経典)の中には仏教徒でない人達からの批判にさらされているものもありますが、サッチャ(真理)、パティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)の教義については議論、批判、論争の余地はありません。
パッターナ(論蔵、第7巻)はアビダンマナヤの中で特に高く評価されています。既に聖者(阿羅漢)になった方々にとってもパティサンビダニャーナ(無碍解道の智慧)を得るのに必要だからです。同じように、俗世間の凡夫にとってパティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)は(1)サッカーヤディッティ(有身見)、(2)サッサタディッティ(常見)、(3)ウッチェーダディッティ(断見)、(4)アヘートゥカディッティ(無因見)などを取り除くのに極めて重要です。ディッティ(見)すなわち誤った信条を取り除くことは預流果(阿羅漢へと向かう悟りの第一段階で聖者の流れに入ったもの)に達するために不可欠です。そこから更に上の段階へと上って行くのです。上で述べた四つのディッティ(見)、誤った見解を完全に捨て去ることができれば、普通に俗世間で暮らす人々(プトゥッジャナ:凡夫)も来世でアパーヤガーティ(悪趣)すなわち悲惨な生存世界に落ちる危険から逃れることができるのです。これは特筆すべきことです。そのような人はスガーティ(善逝)として、人間より高い生存世界に生まれ変わり、七回を越えて生まれ変わることはありません。
このパティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)の教えは因果法則、原因創世、再生反復の教義としても知られています。そして俗世間の普通の人々が誤った見解の足かせから解放され、来世でアパーヤアガーティ(悲惨な世界での生存)に落ちる危険から逃れられるようにとブッダが説かれたたものです。これがあればそれが生じる、これが生じたのでそれが生じる、これがなければそれは生じないと判断する智慧を緻密に表した教えです。
現代風に書けばAがある:Bが生じる
Aが生じる:Bが生じる
Aがなくなる:Bは生じない
因果法則に従って、関連した事象が終わる事なく繰り返す様子を示しています。教えはそれ自体で完結しており、完璧で議論、批判、論争の余地はありません。
パティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)はディッティ(邪見)に対する武器である。
この教えはカンダ(蘊)が生じる原因と、それからもたらされる結果を明確にしています。パンチャカンダ(五蘊)についての知識を持ち合わせることは修行者の必須要件です。学校に通う子供たちは掛け算と割り算を学ぼうと思えば掛け算の九九を全て覚えなければなりません。同じように、マッガパラ(道果)を得ようと志す修行者は、まず始めにこの教え、つまり原因と結果の法則についての知識をもたなければなりません。そうでなければ様々なディッティ(邪見)の魔の手から逃れることができません。ディッティ(邪見)から逃れることができなければチューラソータッパンナ(小さな預流者)の段階を得ることさえも期待出来ません。心と身体を対象に瞑想してなにがしかの徳を得たとしてもマッガパラ(道果)を得ることはできません。ディッティ(見)が立ちはだかり、邪魔をしてマッガパラ(道果)へ向かうことができないからです。
十二因縁(縁起)の教えを完璧に理解しなければ聖者の第一段階に達することさえも難しいと故モゴクセヤドーも明言されました。
タペトゥヴァー パナ ドゥエ ボディサッタ アンニョー サットー アッタノー ダンマターヤ パッチャヤーカラン
ウジュンカートゥン サマットゥッナーマ ナッティ
エーヴァマヤン ローコー パッチャカラン ウジュムカートゥン アサッコントー ドゥヴァーサティディッティ ガタ ヴァセーナ ガアンディジャートー フトゥヴァ アパーヤン ドゥッガティ ヴィパタン サンサーランナティヴァッタティ
ニ種類のボディサッタ(ブッダとパッチェーカブッダ(縁覚))を除けば、自分だけでパティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)の知識を得ることは誰にもできません。ですから俗世間の普通の人々はムンジャ草のつるにぐるぐるに巻かれるように、六十二あるディッティ(邪見)に搦め捕られて不幸で破滅的なサンサーラ(輪廻:再生の繰り返し)から逃れることができません。
ビルマとパティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)
昔、この教えはニダーナヴァッガサンユッタ(因縁品相応)、マハーヴァッガ(大品)、ヴィバンガ(経分別:アビダンマ)などのパーリ聖典でしか読むことが出来ませんでした。注釈書ではヴィシュディマッガ(清浄道論)とサンモーハヴィノーダニ(分別註釈論)に完全な形で収められています。ヴィシュディマッガ(清浄道論)に収載されたものはアヴァ王朝の初期にニッサヤ語に翻訳されたと言われています。サンモーハヴィノーダニ(分別註釈論)に収載されたものはアマラプラ王朝の時代にヤシの葉に記された形でしか手に入りませんでした。普通の人々が簡単に見ることはできず、パーリ聖典の学習者(ほとんどは比丘)でなければ簡単に理解することもできませんでした。このようなわけでパティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)の教えは僧院の書庫にしまわれ、ブッダのイメージとして神格化して取り扱われました。
実際にはほとんどの仏教徒は男女の区別なくアヴィッジャー パッチャヤーサンカーラで始まるパーリ原典全文を暗記しており、仏教寺院の前で礼拝する際、朝に夕に唱えます。しかし経典本来の意味や価値を理解することはほとんどありません。
パティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)に関してはパガン王朝から今日の仏教国ミャンマーに至るまでこれが実態です。もちろん例外はありましたが、ごくわずかです。
在家信者にも分かるように平易な言葉で説法しディパニス(解説書)を書いてパティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)を前面に出したのはレディセヤドーです。これが人々に大きな影響を与え、それ以後、パティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)が大変重要であり不可欠のものであることが徐々に理解されるようになりました。故レディセヤドーは五十以上のディパニス(解説書)を著しましたが、そのほとんどが大なり小なりパティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)を扱っています。
戦後ミャンマーとして独立した後、ブッダサーサナーカウンシル(仏教評議会)の尽力により、パーリ聖典のビルマ語訳が一般にも手に入るようになりました。これによりこれまで多くの人々が多大な恩恵を得てきました。
また数多くのヴィパッサナー瞑想センターが開設され、日に日に人々の関心が高まっているのは喜ばしいことです。しかし、残念ながらほとんど全ての瞑想センターは派閥主義に陥っており自分たちが慣れ親しんだ方法にこだわり、サムダヤダンマーヌパスィヴァヴィハラティ(生滅の法を見て住する)というヴィパッサナー瞑想の核心を教えていません。
<脚注>
比丘はカーヤーヌパッサナー(身随観)、ヴェーダナーヌパッサナー(受随観)、チッターヌパッサナー(心随観)、ダンマーヌパッサナー(法随観)によりその生滅を対象に瞑想して過ごします。
さらに残念なのはそうした瞑想センターでは最も大切なチャトゥーアーリヤサッチャ(四聖諦)とパティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)が視野から欠けておりこの二つの教えを口にすることさえありません。
ディッティ(見)とヴィチキッチャー(疑)を取り除くことが目的であるパティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)とマッガパラ(道果)を得るためのチャトゥーアーリヤサッチャ(四聖諦)が正しく扱われていないのは嘆かわしいことです。ブッダの根本的な二つの教えが無残にもなおざりにされていると言えます。
熱心に正しい道を求める人たちのためを思うと見逃すことができないことがひとつあります。多くの瞑想センターではやっているのはアーナーパーナサティサマーディ(入出息念禅定)を強調したサマーディ(サマタ)の修行法であるということです。
悲しいことにこうした瞑想センターの瞑想者は適切な時期にアーナーパーナサティサマーディ(入出息念禅定)から、純粋なヴィパッサナー瞑想へと修行を進める指導を受ける事なく、立ち往生したまま放置されています。
既にお話したように、最初に十二因縁(縁起)の教えを在家信者に広めたのは故レディセヤドーです。
レディセヤドーの亡き後、モゴクセヤドーがパティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)を再び取り上げ、それが邪見を取り除くのに不可欠で重要なものであることを強調されました。モゴクセヤドーは自ら解説図を考案、導入し、パティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)がどのように回転し、その連鎖を断ち切るためにはどうすれば良いかを分かりやすく簡便に説明されました。
読者の皆さんのために故モゴクセヤドーの生涯について簡単にお話したいと思います。セヤドーはマンダレーから7マイルほどのアマラプラにあるミンガラータイキ僧院で修道中の比丘たちを対象に夜間のアビダンマ教室を開催し、三十年以上パリヤッティササナーの普及に尽力されました。著者がセヤドーからお聞きしたところによると、ある日セヤドーはご自分が牛の世話をしているのに牛から得た牛乳を使うことができない牛飼いのようだと感じたそうです。
セヤドーは当時最も名高い指導者で、アビダンマピタカ(論蔵)のパターナ(読誦)とヤマカ(双論)を教えておられました。数々の僧院で篤く敬われていましたが、在家信者たちは、それ以外はほとんど知りませんでした。
ある日のことセヤドーはアマラプラを離れ、マンダレーの反対側にあるミングンへ向かいました。第二次世界対戦が勃発するまでそこでヴィパッサナー瞑想に励んでおられました。こちらに来て滞在していただきたいとモゴクの住民から要請されましたが、そこに居を構えることはせず、寒期はアマラプラに戻り、夏にモゴクに行くようにしておられました。戦後、セヤドーはアマラプラ、モゴク、そして後にマンダレーを加えた三か所でヴィパッサナーの説法を始めました。セヤドーは名声を嫌い、信者の輪を広げようとはしませんでした。ラングーン(ヤンゴン)を訪れたのは一度だけで、そこから戻って三カ月後に亡くなられました。セヤドーは阿羅漢であったと広く信じられていますが、ご遺体が火葬された際のダートゥ(遺骨)が根拠となっています。葬儀は厳かに、そして華やかにとり行われたそうで、ここ数百年の間それに匹敵するものは行われていません。セヤドーの逝去は大変な損失で代わりになるものはありません。
セヤドーの教えられた方法はサティパッターナ(念処)、スッタ(経典)、サンユッタニカーヤ(相応部経典)、アングッタラニカーヤ(増支部経典)そしてサッチャ(真理)に厳密に適っています。セヤドーは単に教えるだけでなく、先達から伝わる根深い誤った思想や概念を分析し、修正し、矯正し、作り直しました。例えば、サティパッターナスッタ(念処経)のサッチャパッバ(真理の節)を含むほぼ全ての章でヴィパッサナーの核心が述べられています。「サムダヤ ダンマ ヌパッシヴァー ヴィハラティ、ヴァヤ ダンマー ヌパッシヴァー ヴィハラティ、サムダヤ ヴァヤダンマ ヌパッシヴァー ヴィハラティ」がそれでありその意味は、修行者は現象の生滅を対象にして瞑想しなければならないということです。これこそがヴィパッサナーであり、そうでなければヴィパッサナーにはなりません。ヴィパッサナーの最も大事で基本的な部分であり、本質です。嘆かわしいことにほぼ全ての瞑想センターでヴィパッサナーのこの部分が見過ごされ無視されているといっても良いでしょう。
アーナーパーナ(入出息)は大変人気があり良く知られた方法で、子供でも知っています。そしてそれに続くのが二番目の方法、イリヤーパタ(威儀路:身体の動き)です。サマタとヴィパッサナーの違いが分からない人がまだたくさんいます。
アーナーパーナ(入出息)ないしイリヤーパタ(威儀路)に気づき、ラベリングを取り入れてもそれはやはりサマタでありヴィパッサナーではありません。生滅を対象に瞑想(サムダヤ ヴァヤ ダンマ ヌパッシヴァー)、言い換えればアヌパッサナー(無常随観)を観察し瞑想して初めてヴィパッサナーと呼ぶことができるのです。智慧により毎秒毎分、生滅というカンダ(蘊)の本質を観察しようと努力している時だけ、真にヴィパッサナー瞑想をしていると言えるのです。
ウッパーダ(生)とヴァヤ(滅)、サムダヤ(生起)とヴァヤ(消滅)がアヌパッサナー(無常随観)の本質であるとブッダは説かれました。しかしラベリングの圧倒的な人気と激しい入息、出息によりウッパーダ(生)とヴァヤ(滅)という真の本質が隠され、見えなくなってしまっています。
セヤドーはその生涯の後半でブッダが説かれた混じり気のない本物のヴィパッサナーの教えへと在家信者を導く仕事に乗り出しました。
実際、偉大なる師、ブッダの貴い教えはタントラ、マントラ、神秘主義、精霊信仰、バラモン経などの様々な信条の影響にさらされました。そのようなわけでミャンマーの仏教もミャンマー仏教と名付けることができると思います。日常生活の中で多くのビルマ仏教徒はサッサタディッテイ(常見)の濁流に溺れているからです。瞑想にも邪見が持ち込まれ、ほとんどの瞑想者はアーナーパーナサティサマーディ(入出息念禅定)の道半ばで立ち往生していると言えます。本物の純粋なヴィパッサナーはそこからまださらに先となります。故モゴクセヤドーの目的はそのような仏教らしくないあり方を是正し、誤った見解、布施や持戒に際しての誤った意図を指摘することにありました。熱心な修行者はそれにより多大な恩恵を受けると思われます。ヴィパッサナー瞑想を始める前、まず最初にニャータパリンニャー(知遍知)の実践により、修行者の心からサッサタディツティ(常見)、ウッチェーダディッティ(断見)、アキリヤディツティ(無作見)、アヘートゥカディッティ(無因見)を取り除くことが不可欠です。これはパティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)を学ぶことによって可能となります。次に、生滅を対象にした瞑想(アニッチャーヌパッサナー:無常随観)に移る事なくただ入息、出息を訓練してもサッチャヌローミカニャーナ(諦随順智)さえも得ることができません。同様にナーマルーパ(名色:心と身体)の生滅を観察することなく、心と身体の現象をただラベリングするだけならそれはサンニャー(想)に過ぎません。故モゴクセヤドーは生滅(アニッチャ、ドゥッカ、アナッタ:無常、苦、無我)を強調されました。カンダ(五蘊)の生滅を中心にして瞑想するならそれは100%ヴィパッサナー瞑想であると言えます。当然のことですが生滅を対象に瞑想するのでなければそれはヴィパッサナー瞑想ではありません。サティパッターナ(念処経)で説明されているようにサムダヤ(生起)、ヴァヤ(消滅)がなければ不完全で不十分です。モゴクヴィパッサナー普及協会の使命は二つの重要な教え、アリヤサッチャ(聖なる真理)とパティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)を広め、復刻させることです。
最後にウ・チッタラ・セヤドー、アッガマハパンディタに感謝の念を捧げたいと思います。セヤドーは初稿と最終稿に目を通してくださいました。パーリ語の綴りを正し現代用法に合わせることが出来たのはセヤドーのお陰です。
1967年9月11日
ラングーン ビルマ
ウ・タン・ダイン
モゴクヴィパッサナー普及協会会長
<脚注>
1)ここで意味するところは徳のある行為、すなわちダーナ(布施)、シーラ(持戒)を来世でより高い地位、例えば、世界の帝王、天界の王などになることを目指して行うということです。
2)ニャータパリンニャー(知遍知)はティラナパリンニャー(分析遍知)の前に来なければなりません。言い換えればヴィパッサナー瞑想の第一段階がまず最初に来なければならないということです。第二段階に進むのはその後になります。実際の修行は、カンダ(蘊)、アーヤタナ(六処)、サッチャ(真理)、パティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)についての知識を十分得てから、そして信頼出来る指導者の説法を聞くことにより望ましくない邪見から離れることが出来てから行うべきであるということです。ディッティ(邪見)を駆逐するには三段階必要であることに注意してください。まず信頼出来る指導者から教えを聞きます。これがニャータパリンニャー(知遍知)です。次に実際の修行に着手します。これがティラナパリンニャー(分析遍知)です。そして最後に煩悩を根絶やしにします。(パハーナパリンニャー:断遍知)これらはタダンガパハーナ(彼分捨断)、ヴィッカンバナパハーナ(鎮伏捨断)、サムッチェーダパハーナ(断断)としても知られています。