十二因縁・縁起

受随観(ヴェーダナーヌパッサナー):ヴェーダナー(受)を対象とした瞑想

ヴェーダナー(受)は感覚器官、対象、意識という三つの現象が出会った時にはいつでも生じます。この三つの現象が出会うことをパッサ(触)と言います。ヴェーダナー(受)の直接の原因はパッサ(触)です。パッサが原因となってヴェーダナー(受)が生じる(パッサ パッチャヤー ヴェーダナー)と言われています。

ですからヴェーダナー(受)を敢えて探す必要はありません。パッサがあればいつでもどこでもヴェーダナー(受)が生じます。眼、耳、鼻、舌に生じるヴェーダナー(受)はウペッカー(不苦不楽)です。

身に生じるヴェーダナー(受)はスカ(楽)の場合もあればドゥッカ(苦)の場合もあります。

心に生じるヴェーダナー(受)はソーマナッサ(喜)ないしドーマナッサ(憂)です。

好ましく楽しい環境に置かれると人はソーマナッサヴェーダナー(喜受)を楽しむ可能性があります。好ましくない環境に置かれたり、いやな仕事をしたり、家族との問題を抱えたりして不満を持つとドーマナッサヴェーダナー(憂受)を経験する場合もあります。

どのような事が生じても自身のカンマ(業)に身を甘んじてウペッカーヴェーダナー(不苦不楽受)を感じることもあるでしょう。

故モゴクセヤドーは熱心な修行者のために以下のような簡単なヴェーダナーヌパッサナー(受随観)の方法を定め伝えました。

1、外部からの六つの訪問者
(a)眼に生じるウペッカーヴェーダナー(不苦不楽受)
(b)耳に生じるウペッカーヴェーダナー(不苦不楽受)
(c)鼻に生じるウペッカーヴェーダナー(不苦不楽受)
(d)舌に生じるウペッカーヴェーダナー(不苦不楽受)
(e)身体に生じるスカヴェーダナー(楽受)
(f)身体に生じるドゥッカヴェーダナー(苦受)

以上が外部からの訪問者と呼ばれます。

2、内部からの三つの訪問者
(a)心に生じるソーマナッサヴェーダナー(喜受)
(b)心に生じるドーマナッサヴェーダナー(憂受)
(c)心に生じるウペッカーヴェーダナー(不苦不楽受)

以上が内部からの三つの訪問者と呼ばれます。

3、三つのホスト(主体となる)ヴェーダナー(受)
(a)楽しい時、嬉しい時、得意になった時に入息、出息に伴うソーマナッサヴェーダナー(喜受)
(b)不快、痛み、絶望などの際に入息、出息に伴うドーマナッサヴェーダナー(憂受)
(c)快でも不快でも無い時に入息、出息に伴うウペッカーヴェーダナー(不苦不楽受)

大事なことはいつでもどこでもヴェーダナー(受)が生じた時にはそれを対象に瞑想することです。瞑想対象となるヴェーダナー(受)を胸や頭に固定する修行が広く行われています。しかしヴェーダナー(受)は時宜が適えば身体のどこにでも生じます。ですからそのような修行は適切とは言えません。間違った的に矢を向けるようなものです。ヴェーダナー(受)に関して誰も他の人と同意することはできないとも言えます。ヴェーダナー(受)を特定の場所に固定することはできないのです。ヴェーダナー(受)は先行するパッサ(触)があればどこでも生じるのです。

瞑想中、ある瞬間に生じたヴェーダナー(受)が別の瞬間に生じたヴェーダナー(受)と同じであるとみなしてそれを疑わないとすればその瞑想者はまだまだ未熟です。ブッダは説かれました。「ヴェーダナーナン ビッカヴェー アニッチャトー ジャーナトー パッサトー(比丘たちよ、洞察により、ヴェーダナー(受)が一時的で、永続せず、二つの瞬間にわたって同じでありつづけることは決して無いと認識し観察しなければなりません)。」もし洞察の智慧によりヴェーダナー(受)を無常であると認識し、感じ取ることができなければ、その修行者は道を逸れてしまっています。

<脚注>
多くの人がヴェーダナー(受)は長く続く苦しみであると信じています。ヴェーダナー(受)は、それが生じては滅することを常に自ら示しています。ヴェーダナー(受)に対する洞察智を得ることができないのは正しく修行していないためかもしれません。

サティパッターナスッタ(念処経)には「サムダヤ ダンマーヌパッスィヴァー ヴェーダナース ヴィハラティ ヴァヤ ダンマーヌパッスィヴァーヴェーダナース ヴィハラティ サムダヤ ヴァヤ ダンマーヌパッスィヴァー ヴェーダナース ヴィハラティ(修行者はヴェーダナー(受)の生起について瞑想し、ヴェーダナー(受)の消滅について瞑想し、ヴェーダナー(受)の生起と消滅について瞑想しなければなりません)」と書かれています。忘れてはいけない大切なことはヴェーダナー(受)は意図的に探し求めるものではないということです。多くの人が痛み、疼き、病が生じるとそれがヴェーダナー(受)であると信じています。しかしヴェーダナーはそれだけではありません。ヴェーダナー(受)は常に広く生じています。眼、耳、鼻、舌、身、意のどこにでも生じます。

ヴェーダナー(受)がない瞬間は存在しません。ですから瞑想者は五蘊の一つであるヴェーダナー(受)の生起と消滅を認識し、理解するように努めなければなりません。

生起と消滅はアニッチャ(無常)です。アニッチャ(無常)についての理解ないし洞察はマッガ(道)です。こうしてアニッチャ(無常)とマッガ(道)、アニッチャ(無常)とマッガ(道)、という流れが生じます。アニッチャ(無常)とマッガ(道)の間にキレーサ(煩悩)が入り込まなければ現世でマッガパラ(道果)を悟ることも可能です。

ヴェーダナー(受)の生起と消滅に気づき、それを理解すればそれはアニッチャーヌパッサナー(無常随観)です。一方、ヴェーダナー(受)に対する気づきのみであればそれはナーマパリッチェーダニャーナ(名分離智)と呼ばれ少し低いレベルのニャーナ(智慧)です。

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