十二因縁・縁起

二人の大長老の問答

ブッダがご在世のころのことです。ある日コッティカ長老がブッダの一番弟子であるサーリプッタ尊者の所へ赴き尋ねました。「友サーリプッタよ、道徳(シーラ、戒律)をよく守り、心構えが正しい(ヨニソマナシカーラ、如理作意)凡夫が預流果の悟りを得るためには何をするべきでしょうか。」サーリプッタ尊者は答えました。「友コッテイカよ、道徳をよく守り、心構えが正しい凡夫が預流果の悟りを得るためには生滅という五蘊の性質を対象に瞑想しなければなりません。」コッティカ長老は再び尋ねました。預流果の聖者が一来果の悟りを得るためには何をどのようにすべきでしょうか。」サーリプッタ尊者は答えました。「心構えが正しい預流果の聖者は生滅という性質を対象に瞑想しなければなりません。」

同様にコッティカ長老は「一来果、不還果の聖者がより高い悟りを得るためには何をどのようにしたら良いでしょうか」とサーリプッタ尊者に尋ねました。サーリプッタ尊者は「より高い悟りを得るためには生滅という性質を対象に瞑想しなければなりません。」と答えました。尊者はさらに「阿羅漢でさえ果定の至福を楽しむためには生滅という性質を対象に瞑想しなければなりません。」と付け加えました。

ここで言うヨニソマナシカーラ(正しい心構え)とはルーパ(色:身体)はルーパであり、「私」ではない、ヴェーダナー(受:感受)はヴェーダナーで「私」ではない、サンニャー(想)、サンカーラ(行)はそれぞれサンニャー、サンカーラであり「私」ではない、という正しい知識へと心を向けて正しく行動するということです。別の言葉で言えばヨニソマナシカーラの意味は究極の真理(パラマッタダンマ)を通して物事をあるがままに見ることです。

コッティカ長老はもちろん阿羅漢であり、若い比丘のためになればとサーリプッタ尊者に質問されたのです。

ヨニソマナシカーラがなければ物事をあるがままに見ることはできません。

シーラは道徳を意味します。五戒と八戒があり、ほころびがありません。穢れなく、聖者に認められ、サマーディの因縁となります。

シーラとヨニソマナシカーラは瞑想修業者には必須です。そしてヴィパッサナー瞑想、すなわち生起と消滅(ウダーヤ、ヴァヤ)を対象にした瞑想を行うべきです。

ヴェーダナー(感受)を対象に瞑想すればヴェーダナーが自らの生滅を見せようと呼びかけます。チッタ(心)を対象に瞑想すればチッタが自らの生滅を見せようと呼びかけます。これがエーヒパッシコ、サンディッティコ(来れ見よ)の意味です。この呼びかけは修業者にとって大切なものであり智慧と気づきをもってそれに答えなければなりません。タンハー(渇愛)やドーサ(怒)で答えてはなりません。スカヴェーダナー(楽受)にタンハー(渇愛)で答えたり、ドゥッカヴェーダナー(苦受)にドーサ(怒り)やドーマナッサ(憂い)で答えたりすれば十二因縁のプロセスが永遠に回転し続けることになります。

ダンマ(真理)を三年も四年も捜し続けているのにいまだにみつからないと言う人がいます。「来て自分の目で確かめてみてください」とダンマが呼びかけているのがわからないからだろうと思います。ダンマは常にエーヒパッシコ(来れ見よ)と呼びかけているのです。五蘊からなる私たちの存在全体が瞑想対象なのです。ボートを漕ごうとしているのに水の存在がわからない人のようです。五蘊のある所には必ず生滅があります。生滅があれば必ずドゥッカ(苦)が生じます。ドゥッカが分かれば、アナッター(無我)が分かります。そしてドゥッカサッチャー(苦諦)を洞察する智慧が生じます。

五蘊に対する無知のために生滅を感じ取ることができず、そのため修業者は無常を永遠と考え、ドゥッカ(苦)をスカ(至福)と考えてしまいます。信頼出来る師に出会う事ができず、あるいはあえて探そうとしないからです。真の指導者はサッチャー(真理)に関連してパティッチャサムッパーダ(十二因縁)を教えの中心に置きます。十二因縁がいかにして回転を始めるか、どうしたら十二因縁の車軸を粉砕することができるかを教えます。

-十二因縁・縁起