十二因縁・縁起

ヴィパッサナー瞑想で身体が揺れることはありますか?

ブッダがご在世の頃、カッピナ長老が、ブッダが滞在されているジェータワナ僧院を訪れました。ブッダから遠からぬ所に座を組み、背筋を伸ばして静かに気づきの瞑想修行を始めました。長老を目にしたブッダは比丘たちを呼び寄せ言われました。「比丘たちよ、長老の身体や心に動揺は見られますか?」「いいえ、尊師」と比丘たちは答えました。「比丘たちに囲まれ、そこに座っている長老の身体にも心にも動揺は見られません。」

パティサンビダーマッガ(無碍解道、小部経―1)、アーナーパーナサティカター(アーナーパーナサティ論)にはこう書かれています。「アーナーパーナサマーディ(サマタ)の集中を実践している瞑想者はピクリとも動きません。」このようにブッダの教えに従ってアーナパーナサマーディを実践する瞑想者の身体も心も動揺しないことは明らかです。これは純粋なサマタ瞑想のみについて語っています。

ブッダが説かれた修習には三つの段階があることを忘れてはいけません。シーラ(戒)、サマーディ(定)、パンニャー(慧)の三つです。ここで言うパンニャー(慧)はヴィパッサナーパンニャー(ヴィパッサナーの智慧:より高い智慧)です。シーラ(戒)よりもサマーディ(定)の方がレベルが高く、気高く、徳が高いことについては誰も否定できません。一方、パンニャー(智慧)はサマーディ(定)よりもレベルが高く、気高く、徳が高いとされています。ですからパンニャー(智慧)は最も徳が高く気高いのです。瞑想者が全てのキレーサ(煩悩)を根絶し、ニッバーナ(涅槃)を悟ることを可能にするのはパンニャー(智慧)だけだからです。サンマーディッティ(正見)が先頭に立つことで聖なる八聖道の全てが成就するのです。サマタの場合はサンマーサマーディ(正定)が先頭に立ちます。したがってサマタは全てを含んだパンニャー(智慧)、すなわちヴィパッサナーパンニャーとは言えません。ヴィパッサナーパンニャーはパンチャカンダ(五蘊)のいずれかの生滅を対象に瞑想実践することで得ることができます。ですからヴィパッサナー瞑想においては身体や心が動揺することはと無いと断言できます。なぜならヴィパッサナー瞑想には正しい態度と正しい知識(ヨニソマナシカーラ:如理作意、マハークサラニャーナサンパユッタチッタ:浄大慧相応心)が含まれているからです。

ミャンマーでも場所によっては身体のこわばり、失神、意識消失、痴呆、虚脱などの事例があると言われています。

純粋なヴィパッサナーの場合はそのような不快な出来事は決して起きないと断言します。ヴィパッサナー瞑想者にはありえないことです。なぜならヴィパッサナー瞑想自体がマハークサラニャーナサンパユッタチッタ(浄大慧相応心)でありサンマーディッティ(正見)、サンマーサンカッパ(正思惟)に導かれるからです。

サンマーは正しいという意味で、ディッティは見解を意味します。サンマーディッティは正しい見解です。正しい見解と正しい思考とヨニソマナシカーラ(如理作意:正しい行為)のある瞑想者はヤターブータニャーナ(如実智)すなわち物事をあるがままに見る智慧、パンチャカンダ(五蘊)をあるがままに見る智慧、言い換えれば生起と消滅(アニッチャ:無常、ドゥッカサッチャ:苦諦)を観察する智慧を持ち合わせています。

ヴィパッサナー瞑想ではそのような不快な出来事は起こり得ないと、熱心な修行者のために改めて強調しておきたいと思います。パーリ聖典にも注釈書にもそのような不幸で望ましくない事象はどこにも書かれていません。ですからヴィパッサナー瞑想の指導者を選ぶ際には極めて慎重になって欲しいと思います。

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