再生の繰り返し(輪廻)から解脱するための解説と実践的応用
ウ・タン・ダイン著
序文:ウ・チッタラ・セヤドー、アッガマハパンディタ
モゴクセヤドー
序文
熱心な修行者がパティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)、因果法則に基づいてパンチャカンダ(五蘊)の正しい知識を得ようと思ったら、本書は最も卓越したものであることは間違いありません。パティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)の理解を深める意味でも大変意義深い本です。この本の著者であるウ・タン・ダインは実践的な観点からその教えを明瞭に、そして完璧に示す偉業を成し遂げました。
本書の目的は全ての苦しみから解放されるための正しい道を差し示す道標を提供すること、そして英語圏の読者がパティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)に触れることが出来るようにすることです。パティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)が教えているのは1)人格、男、女などと習慣的に呼ばれてきた様々な精神・身体現象のプロセスは単なる偶然ではなくて、原因と結果によって生じている、2)誕生と死は条件に依存した現象である、3)条件が除かれれば全ての苦しみは消え去る、4)聖なる真理の1番目、2番目の論理的意味を通常の順番(アヌローマ)で、真理の2番目と3番目を逆方向(パティローマ)で明らかにすることです。ですからパティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)はブッダの教えを真に理解し、悟るための根本的な要素です。
仏教は他の宗教や哲学とは異なる独自の性格をもっています。仏教を特徴づける救済の方法は他の宗教とは大きく異なります。多くの宗教は神に帰依せよ、神に祈りを捧げよ、神に身を委ねよ、と教えています。キリスト教、ヒンドゥー教、イスラム教、ゾロアアスター教、ユダヤ教の教えは神の概念に基づいています。こうした宗教では神を信じない限り正しく有用な人生を始めることはできないと教えています。これらの宗教の信者の多くが慈善、純潔、神聖に満ちた生活をおくっていることは知っています。しかし不思議なことに多くの仏教徒も慈善、純潔、神聖な生活を送っていますが、ブッダは救済への最初の段階で神を崇拝することを要求していません。
仏教の教義が他の宗教と異なる点の一つはアナッタ(無我)、すなわち自我や自己を認めていないことです。ユダヤ教の哲学によれば、人間の体内には変わらない実体が存在し、それが人の行動を支配するとされています。それは変化せず、一定で、死んでもどこかに存在し、最後の審判の日に天国へ行くか地獄へ行くかが決まるそうです。ヴェーダ教の慣習では「エタン ママ、エソー ハマスミ、 エソー メー アッタ」すなわちアッタないしアートマン(自己)は永遠で、独立した実体であり、身体の中に住む、と考えます。このような見方はインド思想の多くの学派に受け入れられています。つい最近になってヨーロッパの哲学者、科学者が、全ては流動的で変化しており永遠なものは無いと認識するようになりましたが、それは既に二千五百年以上前にブッダが説かれた教えであり、身体だけでなく心にもあてはまります。
私たちが「人」と呼んでいるのは心と物質の集合体です。仏教はいわゆる人間の構成要素である心と身体(ナーマルーパ)以外に不死の魂とかアッタ(我)などその背後に存在するものは無いとみなします。物質(ルーパ)は目に見える形を持っていますがパーリ経典でマハーブータ(四大要素)として知られている見えない特質を持っています。
四大要素は不可分で相互に関連しています。形ある物質は基本的に全てがこの四大要素から成り立っており、全ての物質対象は四大要素がそれぞれに応じた割合で組合わさってできています。しかし同じ物質が変化して異なる形態をとったとたんに、心はそれを特異的な外観、姿、形態として概念的に受け止めます。
心は生命の最も重要な部分で、本質的には意識の流れであり、「思考」という言葉で表現することもできます。しかしながら思考は単なる身体機能ではありません。電気のようにエネルギーの一種です。思考と思考の流れの放散は心の世界の精神的要素であり、身体の世界の四大要素に相当します。生命の本質は流動状態にある思考の力が表現されたものです。
ブッダは心を分析され、それが四つの精神現象の集合であることを示されました。それは(1)感覚ないし感受(ヴェーダナー:受)、(2)感覚対象の知覚ないし感覚への反応(サンニャー:想)、(3)心の傾向や機能を含む五十種類ある心の要素(サンカーラ:行)、(4)他の三つの根本要素である意識(ヴィンニャーナ:識)の四つです。
このようにいわゆるサッタ(生命)は五蘊ないし心と身体のエネルギーの集合体であり、常に変化していて、二つの瞬間にわたって同じであり続けることはありません。
五蘊のいずれかがアッタ(我)、自己、魂なのでしょうか。ブッダの答えはノーです。それではアッタ(我)、自己、魂と呼べるものは何か残っているでしょうか。既にお話した通り、五蘊を取り去ったら後にはアッタ(我)と呼べるものは何も残りません。これが全ての生命に共通する三つの本質の一つ、すなわちアナッタ(無我)という性質です。仏教はアナッタ(無我)、すなわち魂など無いという立場を取っており、この点で他の宗教と異なります。車から車輪、アクセル、床板、側板、車軸その他の部品を全て取り去ったら何が残るでしょうか。何も残りません。こうした部品の組み立てたものを車と呼んでいるだけです。全く同様に五蘊を組み合わせたものが生命であり、種類、姿、形の違いにより様々な名前で呼ばれ、身体と心の状態に応じて変化します。
生命の起源の問題については主に二つの考え方があります。生命には始まりがありそれははるか昔のことで創造神がその原因であるというのが一つの考え方です。もう一つは生命には始まりはなく、原因が結果となり、あるいは結果が原因となり、原因と結果の連鎖の中では始まりをみつけることはできないというものです。
一番目の考え方が正しいとして、生命には始まりがあり、創造神がその始まりであるとしたら、その創造神はどうやって存在するようになったのでしょうか。その創造神の生涯はどのような法則に支配され条件付けられるのでしょうか。先行する原因も創造者もないのにそのような創造神が存在できるとしたら、世界も生命も同じように創造者なしで存在することがどうしてできないのでしょうか。
二番目の考え方、すなわち生命には始まりがないというのは仏教の見解です。ブッダは「現象の起源を見いだすことはできない、無明に行き詰まり、渇愛に搦め捕られた生命の始まりを見つけることは出来ない(相応部経典、II 178)」と明確に説かれました。前に述べたように、生命のプロセス、宇宙は原因と結果の自然法則に支配されています。原因が結果になり、結果が原因になり、生まれたものは死に、死ねばまた生まれるのです。誕生と死は同じ生命プロセスの二つの相です。この原因と結果、誕生と死の繰り返しを仏教ではサンサーラ(輪廻)と呼び、最初の原因を見つけることはできません。パーリ語であるサンサーラの文字通りの意味は「さまよいながら絶え間無く再生を繰り返すこと」です。
この生死のプロセスを説明しているのがパティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)です。サンサーラ(輪廻)についての経典であり、生死の原因、プロセスを扱っています。生命の絶対的起源を示そうとしたものではなく、世界の進化の理論を示したものでもありません。生死のプロセスに関わり、相互に連結し支え合う十二の要素からなります(図をご覧ください)。
十二の連結のうち、最初の二つは過去の存在の要約であり、無明の影響で行った過去の意志を伴った行為(カンマ:業)です。ヴィンニャーナ(識)からヴェーダナー(受)までは過去の生存ないし過去の行為(カンマ:業)の結果を表しています。タンハー(渇愛)からバヴァ(有)は現在の意志を伴った行為(カンマ:業)を示したもので、刻々進行しつつあります。これは、現在の性格や境遇は過去の行動(カンマ:業)の結果であり、私たちが未来にどうなるかは、現在何を為し、どのように自分の境遇に向きあうかによって決まるということを意味しています。そして来世へと続く生命力(業の力)の質を自分で変更し修正していくことができることを意味します。最後の二つの結合、誕生とその結果は現在の行為(カンマ:業)の結果をまとめて示します。このように過去、現在、未来と三つの生存が続きます。
こうしてパティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)は以下の三つの大きな疑問に答えます。
一番目の疑問:私たちはどこから来たのか。
答え:私たちは、過去から来ました。以前為した物事から来ました。完成していない仕事から来ました。過去の悪行と善行から来ました。私たち自身の無知による暗闇から来ました。そして私たち自身の欲望から来ました。
二番目の疑問:私たちはなぜここにいるのか。
答え:私たちは過去が原因でここにいます。過去から現在が生じ、現在から未来が生まれるからです。自分自身の喜び、悲しみ、そして何よりも欲望によって私たちはここに連れて来られたのです。そして最後の利己的な欲望が滅尽する時まで、私たちはここにい続けます。賢者にとっては、ここでの人生は過去に積み上げた重荷を降ろす機会と言えます。誤った行い、誤った見方、生死についての誤った概念を捨て去り、そこから離れて中道を歩む良い機会です。
三番目の質問:私たちはどこへ向かっているのか。
答え:自分が作り出した原因の結果に向かって行きます。修行が完成していない生存の車輪(サンサーラ:輪廻)を回すだけであり、修行完成に向けて戻っていくだけです。中道を歩み、修行を完成した人はニッバーナ(涅槃)に達し、全ての苦しみが完全に止まります。
巨大な幻想の仮面を剥ぐのが人間として生まれた私たちの仕事です。俗世間的な事象の中でバランスを保つのがブッダの方法です。生命についてよく考えますが、俗世間的生活に陥ることは決して無い、それがブッダの法則です。俗世間的生活から飛び出してより高く、崇高な生活を送るのがブッダのアドバイスです。真理、永遠なるニッバーナ(涅槃)と一体となるのが仏教徒の人生の目的です。
次のページから、パティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)を分かりやすく明瞭に解説するという著者の偉業が始まります。パティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)を自分自身で理解する目的でヴィパッサナー瞑想を実践したいと望む修行者に、実践面での大事なポイントを簡潔に説明しています。この本が、自分でパーリ原典を学ぶ余裕がない英語圏の人々にも役立てばと思います。パティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)については多くの翻訳本がありますが、因果法則の教えをより正しく理論的に解説する本を学びたいと望む人たちの役にたつことを祈ります。
1967年9月30日
ヤンゴン、ミャンマー
ウ・チッタラ長老 アッガマハパンディタ