チャンナ長老はかって王族の従者の一人で、シッダッタ王子が真理を求めて王宮から出家した際にお供をした方です。チャンナはシッダッタ王子がブッダになってしばらくしてから比丘になりました。熱心にヴィパッサナー瞑想に励みましたが残念ながら道果(マッガパラ)の第一段階、預流果(ソータッパンナ)を得ることができませんでした。あちこち尋ねて、比丘たちに自分は無常(アニッチャ)と苦(ドゥッカ)に対する洞察を得たのに、道果(マッガパラ)をどうしても得ることができないと告げました。そうです。四十年以上も道を求め、五蘊の生滅に対する洞察を得たにもかかわらず、聖者の第一段階さえも悟ることができなかったのです。ルーパ(色)もヴェーダナー(受)もサンニャー(想)もサンカーラ(行)もヴィンニャーナ(識)も永続しないことは分かっていました。しかし無我(アナッタ)のことになると、自分が断崖絶壁の縁にいて今にも落ちてしまうように感じると言うのでした。さらに五蘊の全てが無我(アナッタ)だとしたら、これまで拠り所にしていたものがなくなってしまうと思いました。チャンナが過度に我(アッタ)に依存していたのは明らかです。だから無我(アナッタ)のことを考えるといつも断崖絶壁の縁にいるようにおびえたのです。こうして四十年を越える時が過ぎ、ブッダは般涅槃(パリニッバーナ)されてしまいました。落胆と自責の念からチャンナは僧院から僧院へと遍歴し、比丘たちに助言と面談を求めましたがいつも無駄骨でした。
最後にアーナンダ尊者なら正しい道へと自分を導くことができるだろうと考え、自分の僧院をたたんで、アーナンダ尊者が滞在されているコーサンビを尋ねました。アーナンダはチャンナの修行が進まないのはパティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)の知識がないからだとすぐに理解しました。それでアーナンダはチャンナを慰め、パティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)の教義をチャンナに教えました。かってモンターニの息子、カッチャーヤナにブッダがパティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)説かれたのと同じように教えました。
パティッチャサムッパーダ(十二因縁:縁起)の教義を十分理解したチャンナはサッカーヤディッティ(有身見)、サッサタディッティ(常見)、ウッチェーダディッテイ(断見)全てを根絶やしにし、ついに道果の第一段階を得ることができました。
言うまでもありませんが、十二因縁の教義はヴィパッサナー瞑想を志す瞑想者には欠かすことができません。この教義に精通していない瞑想者は五蘊(パンチャカンダ)を正しく知ることができません。五蘊を正しく理解する、すなわち五蘊の生滅を理解することが無ければ五蘊にはびこり、こびりつく見(ディッティ)を取り除くあるいは駆逐することができません。そして見(ディッティ)があればそれと不可分の無明(アヴィッジャー)と渇愛(タンハー)が生じ、幅をきかすことは避けられません。
邪見(ミッチャーディッティ)はこれまで述べたように、無明(アヴィッジャー)と渇愛(タンハー)よりも有害です。聖者の第一段階である預流果の悟りを妨害するからです。より高い道果(マッガパラ)は全て預流果から始まるのです。さらに邪見(ミッチャーディッティ)はまぎれもなく悪趣(アパーヤブーミ、悲惨な生存世界)の温床です。渇愛(タンハー)が善趣(スガティブーミ)ヘの再生を妨げないのと対照的です。
見(ディッティ)は無明(アヴィッジャー)や渇愛(タンハー)よりも恐ろしく、危険です。無明(アヴィッジャー)も渇愛(タンハー)も、たとえどのような形をとったとしても悪趣(アパーヤブーミ、悲惨な生存世界)に落ちる原因には分類されていません。無明(アヴィッジャー)は阿羅漢になって初めて根絶することができます。渇愛(タンハー)は阿羅漢の一つ下の不還果で根絶やしになります。たとえ無明(アヴィッジャー)があっても預流果、一来果、不還果の道果を得ることはできます。
在家女性信者ヴィサーカはプッパーラーマ僧院の寄進者としてよく知られています。彼女は預流果の道果を得ていましたが最愛の孫の死に際し号泣したと伝えられています。しかしヴィサーカに生じたドーマナッサ(憂)もウパーヤーサ(愁)もアパーヤガマニーヤ(悪趣へ落ちるべき原因)とはなりません。こうしたドーマナッサ(憂)やウパーヤーサ(愁)があってもアパーヤブーミ(悪趣)に落ちやすくなることはありません。