十二因縁・縁起

サーティ比丘が邪見をいだいた顛末

これはサーティという名前の比丘の話です。彼はヴィンニャーナ(意識)は永続し、不変で、永遠であり、変化するのは身体だけであるという邪見に固執していました。ブッダがテミヤ、ジャナカ、スワッナサーマ、ブーリダ、カンペヤ、ヴィドゥーラ、マホーサダー、ネミヤ、ナーラダ、ヴェッサンタラーという十編のジャータカ(本生譚)を説教された際に、サーティ比丘はテミヤからヴェッサンタラーまで変わったのは身体だけで、ヴィンニャーナ(識)はいつも変わらず一つであり、永続し、変化せず、永遠であると考えました。

サーティ比丘は自分の邪見を他の比丘たちに告げて回りました。比丘たちはブッダが説かれた真理を穢すのは善くない、とサーティをたしなめました。頑固なサーティは自分の邪見を広め続けました。サーティを止めることができなかった比丘たちはブッダのところへ行き、事の次第を全て報告しました。

ブッダはサーティを呼び、そのような邪見をいだきそれにこだわっているというのは本当かどうかを尋ねました。サーティ比丘はそのような邪見をいだいていることを認めました。ブッダは言いました。「愚か者よ、私がそのように教えたと誰かが言ったのか。私は様々な方法で、全ての意識は条件に応じて生じるだけであると明らかにしたのではなかったのか。私は相応の原因が無ければいかなる意識も生じないと繰り返し示してきたのではなかったのか。私はヴィンニャーナ(識)は他の全ての法(ダンマ)と同様、永続せず、一時的で、常に変化し、二つの瞬間にわたって同じであり続けることはないと教えてきたのではなかったか。」

ブッダは振り向いて告げました。「比丘たちよ、どのような意識が生じてもそれは原因があるからです。感覚門と対象(アーランマナ)という二つに依存して意識が生じるのです。眼と視覚対象があるため眼識が生じるのです。同様に耳と音、鼻と匂い、舌と味、身体と接触、心と概念に依存してそれぞれ耳識、鼻識、舌識、身識、心識が生じます。燃料があるから火が燃えるようなものです。原因があるから結果が生じるだけです。木を燃やせば木についた火と呼ばれます。牛の堆肥を燃やせば堆肥についた火と呼ばれます。竹や草などを燃やせばそれに応じて名前が変わります。同じように意識は対象(アーランマナ)と感覚門(ドゥヴァーラ)に応じて生じます。これがあればあれが生じ、これがなければあれは生じない、これが法則です。十二因縁に従えば、これらは因果関係で結ばれた一連の現象ということになります。現世の意識はチュティヴィンニャーナ(死識)で終わり、来世ではパティサンダヴィンニャーナ(結生識)という新たな意識が生じます。テニヤ王子の意識は臨終の際に、死の意識として終了し、次の生存でパティサンディヴィンニャーナ(結生識)という新しい意識が生まれます。同様にジャナカ、ヴィドゥーラ、スワッナサーマ、ヴェッサンタラー王子はそれぞれ生涯をチュティヴィンニャーナとして終え、それぞれの次の生でパティサンディヴィンニャーナ(結生識)として新しい意識が生まれます。十二因縁の図、セクションIIの最初の連鎖です。

ある時、ブッダの説法が明るく楽しそうであったため、それと分からずに聞き惚れていたカエルがいました。その最中、たまたま牛飼いの杖に刺されてカエルは死んでしまいました。そしてターヴァティムサという天界のデーヴァプッタ(天子)になりました。カエルの意識はデーヴァプッタ(天子)の身体を追い求めたわけでも、カエルの意識がデーヴァプッタ(天子)の身体に入ったわけでもないことをはっきり理解しなければなりません。ただの因果法則なのです。仏教には魂の移動はありません。生まれ変わりも完全に否定されています。実際に起こったのは天子(デーヴァプッタ)の結生識(パティサンディヴィンニャーナ)であり、それは先行するカエルの生涯最後の死識(チュティヴィンニャーナ)に依存しています。言い換えれば、天子(デーヴァプッタ)の結生識(パティサンディヴィンニャーナ)がカエルの死識(チュティヴィンニャーナ)に依存して生じたのです。天子(デーヴァプッタ)の識(ヴィンニャーナ)がカエルの識(ヴィンニャーナ)と同じものではないことをよく理解しなければなりません。一つの生存と次の生存をつなげる魂や識(ヴィンニャーナ)は無いからです。いかなる魂も意識も他の意識に受け継がれることはありません。既に述べたように、意識は一時的で、永続せず、二つの瞬間にわたって同じであり続けることはありません。

同様に、プッパーラーマ僧院の寄進者であるヴィサーカは死後スニッミタ(妙化天)、トゥスィタデーヴァ(兜率天の王)の王妃となりました。これもカエルの説話と同じように説明が必要です。女性在家信者ヴィサーカの意識は決してスニッミタ(妙化天)、トゥスィタデーヴァ(兜率天の王)の王妃の身体を追い求めたわけではありません。にもかかわらず、先行するヴィサーカの死識(チュティヴィンニャーナ)が新たな生存を生み、結生識(パティサンディヴィンニャーナ)が生じたのです。繰り返しますが生存から次の生存へと移行するものはなにもありません。原因と結果の法則が働くだけです。

ですから現世の意識が来世の意識と同じであると誤り、間違った見方をしてそれを信じるなら、それはやがて常見(サッサタディッティ)へと展開して行きます。一方、死後は何も起こらないという誤った見方をすればそれはやがて断見(ウッチェーダディッティ)となります。両極端から離れた中道だけが道果(マッガパラ)へと導くのです。ディッティ(見)という形の障害が有る限り道果を得ることは決してありません。懸命に努力してヴィパッサナー瞑想しても道果の最初の段階すら悟ることはできません。

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